花倉織の名古屋帯 (未仕立て)
http://asa-koubou.com
―…―…→→
未仕立 / 名古屋帯
手織り / 技法は首里織の花倉織
巾35cm
長さ5m25cm
ー・→
素材 絹糸100%
絹糸 (100%) は「21中8」を使用。
*蚕の出す糸 → 繭糸 (まゆいと) = 生糸 (きいと) は → 1d (デニール) の太さで、1d は 9000mで1gと云われています。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e5581085.html
1d (デニール) の生糸を21倍の太さに撚 (よ) りをかけた糸が21d (デニール) といいます。
21dの繭糸 = 生糸を8本撚り合わせた絹糸は「21中8」と呼んでいるようです。
*生糸の太さは一定してないので、
「平均値 ≒ 中」と表示。
ー・→
染料 草木染 (月桃とガジュマルほか‥)
染料は月桃とガジュマル、
ヤエヤマアオキ (通称・ノニの実) の重ね染め。
ー・→
花倉織は花織と絽織を組合せた絡み織。
↑花倉織 (絡み織) は「透き」が特徴。
ー・→
↑14ユミの筬 (オサ) を使用。
14 (ユミ / ヨミ) の筬を使用すると、
1cm の中に14組の経糸 (たていと) が入ります。
ー・→
↑お太鼓部分と胴体部分の紋様。
そのほか、耳の部分、見えない部分も 5m25cm すべて花倉織の総柄紋様になっております。
お値段は158.000円になります。
福木染の名古屋帯 (仕立上り)
http://asa-koubou.com
―…―…→→
仕立上り / 名古屋帯
手織り / 技法は首里織
巾31.5cm
長さ3m70cm
ー・→
素材 絹糸100%
絹糸 (100%) は「21中10」を使用。
*蚕の出す糸 → 繭糸 (まゆいと) = 生糸 (きいと) は → 1d (デニール) の太さで、1d は 9000mで1gと云われています。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e5581085.html
1d (デニール) の生糸を21倍の太さに撚 (よ) りをかけた糸が21d (デニール) といいます。
21dの繭糸 = 生糸を10本撚り合わせた絹糸は「21中10」と呼んでいるようです。
*生糸の太さは一定してないので、
「平均値 ≒ 中」と表示。
ー・→
染料 草木染 (福木)
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7382784.html
↑14ユミの筬 (オサ) を使用。
14 (ユミ / ヨミ) の筬を使用すると、1cm の中に14組の経糸 (たていと) が入ります。
お太鼓部分、胴体部分、耳の部分は花織の紋様になっております。
お値段は89.000円になります。
福木染の名古屋帯 (未仕立て)
http://asa-koubou.com
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未仕立て / 名古屋帯
手織り / 技法は首里織
巾34.5cm
長さ5m15cm
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素材 絹糸100%
絹糸 (100%) は「21中10」を使用。
*蚕の出す糸 → 繭糸 (まゆいと) = 生糸 (きいと) は → 1d (デニール) の太さで、1d は 9000mで1gと云われています。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e5581085.html
1d (デニール) の生糸を21倍の太さに撚 (よ) りをかけた糸が21d (デニール) といいます。
21dの繭糸 = 生糸を10本撚り合わせた絹糸は「21中10」と呼んでいるようです。
*生糸の太さは一定してないので、
「平均値 ≒ 中」と表示。
ー・→
染料 : 草木染 (福木)
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7382784.html
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↑14ユミの筬 (オサ) と糸綜絖を使用。
14 (ユミ / ヨミ) の筬と糸綜絖を使用すると、
1cm の中に14組の経糸 (たていと) が入ります。
お太鼓部分、胴体部分、耳の部分は花織の紋様になっております。
お値段は90.000円になります。
色いろ商品について
http://asa-koubou.com
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色いろ商品の下書き
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緑の花倉織
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茶の花倉織
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黒の花倉織
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黒の花織
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赤の花織
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タピストリー
http://asa-koubou.com
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http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8818939.html
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http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8520132.html
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http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8475207.html
━↓─━─扉─━─↓━
(・・? ?
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http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8043697.html
━↓─━─扉─━─↓━
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7032234.html
━↓─━─扉─━─↓━
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7032109.html
━↓─━─扉─━─↓━
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7045876.html
かりゆしウェア
http://asa-koubou.com
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「かりゆしウェア」は、ハワイのアロハシャツをモチーフに作成。
当初は沖縄県の観光品 / 県産品として活用され、近年ではクールビズ推奨の影響からさまざまな形で活用されるようになっているようです。
阿佐工房でも部分的に「花織」模様を使用した『かりゆしウェア』や「プリント絣」模様の『かりゆしウェア』を作って見る事にしました。
ー・→
↑ボディの色見本。
赤色ボディに部分的に花織模様。
ピンク色ボディに部分的な花織模様。
ホワイトクリーム色のボディに花織模様。
緑色ボディにプリント絣。
*プリント絣は本物の絣ではありません。
男性用の かりゆしウェア
女性用の かりゆしウェア
100%花織のジャケット
0% ~ 10% ~
半袖、長袖、七分丈、衿の形など。
0% ~ 10% 部分的に、
~ 100%まで色いろ。
デジャブる旅行
歴女の間では幸村 (ゆきむら) 様が人気を呼んでいます。
(’-’*)♪ ♀ ☆ ♪
幸村様は戦国武将の真田幸村 (信繁) の事で、
(’-’*)♪ 幸村様がイケメン (色男) であった事も歴女たちのトキメキ心を揺れ動かしています。
(’-’*)♪ ♀ ☆ ♪
真田幸村 = 真田信繁
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
【 真田氏の家紋について 】
江戸時代に 真田幸村 (信繁) を取り上げた物語の影響で、真田氏 ≒「六文銭」の家紋。と事が定着したといいます。
真田氏の源流である海野氏は根津氏、望月氏と同じ『滋野3家』といい三家は緊密な関係でした。
☆ ♪ ★ ♪ ☆ ♪
【 滋野3家は月星紋 】
海野氏は、滋野氏の家紋である「月天七九曜 (月星紋)」にちなみ「月輪七九曜 (月星紋)」を家紋にしていたが、後ほど「六文銭」の家紋を使用するようになり、海野氏の分家である真田氏も「六文銭」の家紋を使用するようになったといいます。
ー?→
(・・? 気のせいか?
真田幸村 / 真田氏の家紋は、
打紙 (ウチカビ) に似ている気がしました。
ー?→
打紙 (ウチカビ) とは、
冥銭 (めいせん ≒ あの世の紙銭) の1種で、中国や台湾、韓国、ベトナム、琉球などにおいては、紙幣を模した冥銭が用いられ。祖霊信仰の一種で墓前で冥銭を焚いたり、特に旧盆の時期に祖霊への供物として軒先で焚かれる。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E9%8A%AD と、ある。
沖縄県では打紙 (ウチカビ) と呼ばれる黄色い紙に銭形を押した紙銭 (カビジン) = 冥銭が一般的に用いられ、これらの副葬品は死者が「あの世でお金に困らないように」や「三途の川の渡し賃」などの意味があるといいます。
ー?→
(・・? また、
日本の仏教でも死者に『六文銭』を持たし、三途川を渡らせる。と風習があるようです。
三途川 (さんずのかわ) とは、
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%80%94%E5%B7%9D
此岸 (シガン ≒ この世)と彼岸 (ヒガン ≒ あの世) を分ける境目にあるとされる川で、
三途川の渡し船の料金は六文と定められており、六文銭 (冥銭) を持たせる習俗が?‥ とあり、日本では、三途川の渡河料金として六文が冥銭とされ、仏教の六道輪廻から『六文銭』が由来しており、それは貨幣経済の発達に伴い霊界でも貨幣が必要だという価値観念から、死後世界へと移行する通過儀礼的な意味合いを持ち、真田氏や海野氏が六文銭の家紋を使用する事で知られているようです。
ー?→
(・・? どうして?
真田氏や海野氏のは、死語世界を連想する『六文銭』の家紋を使用していた? いうと、戦場にあっても「死を恐れていない」という気概を相手に見せるため、旗印や鎧兜、袖の裾に三途川の渡し賃である六文銭を身につけていた。と考えられ、主に戦時に使用する家紋であったようです。
―…―…→→
(・・? 今となつて?!
真田氏や海野氏というと「六文銭」の家紋。と事を連想するけど、それは戦時用 (一時的) の お話で、真田氏は海野氏の分家と云われ、真田氏の源流である海野氏は根津氏、望月氏と同じ『滋野3家』といい三家は緊密な関係でした。
(・・? もとはというと?!
真田氏 → 海野氏、根津氏、望月氏という『滋野3家』は、月星信仰に通づ「月星紋 (家紋) 」を使用する駒人 (コマぴと) が祖とされ、満月 (まんげつ) の古語は『望月 (もちつき / 餅つき) 』といい、望月氏も「月星紋 (家紋) 」を使用していたようです。
☆ ♪ ★ ♪ ☆ ♪
真田氏 → 海野氏、根津氏、望月氏という『滋野3家』は ほぼ同族で、その拠点は信濃国で、古代には「望月の牧」と呼ばれる馬の管理場があったといいます。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E6%97%A8%E7%89%A7
ー・→
望月の由来ともなった「望月の牧」を始めとする御牧は、古く奈良時代から産する馬を朝廷に送られ、これらの産駒は途中の近江国甲賀村で休養や調教 (飼養牧) を行っていた。そこから望月氏と甲賀の地は古より関係があり、‥→‥→ 恩賞としてその後、信濃の望月氏の支流が甲賀の地で ‥→‥→
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E6%9C%88%E6%B0%8F
ー・→
7世紀、
ヤマト朝廷の拠点が近江国にあった時 / 天智朝 (近江朝) の時代に起きた「白村江の戦い」に敗れた後 → 近江国 ~ 信濃国にかけて「牧」が急激に現れ、月星信仰を持つ駒人 (コマぴと) が日本に渡来したと云われています。
後ほど、甲賀望月氏 ~ 信濃望月氏に → 牧 → 柵 (さく) → 佐久? 通じたのかもしれません。
ー?→
上記の文を振り返ると?!
真田氏や海野氏が六文銭の家紋を使用するのは戦時用 (一時的) の お話であったけど、後世の「物語 / 文献」の影響から真田氏や海野氏と言えば『六文銭の家紋』と事が定着してしまった?
⇔ しかし、
(・・? もとはというと?!
真田氏 → 海野氏、根津氏、望月氏という『滋野3家』は、月星信仰に通づ「月星紋」を使用する駒人を祖とする一族という。
―…―…→→
(・・? その組合せは?!
既視感 (デジャブる) の気がしました。
既視感 (デジャブる) とは?
既 (すで) に、どこかで視 (み) た感 (ブ) る
こと。
━↓─━─扉─━─↓━
実はというと、
打紙 (ウチカビ) = 冥銭 (あの世の紙銭) は、旧暦の7月15夜が近づくと販売を増します。
旧暦の7月13日に、あの世から御先祖様を「ウンケイ (お迎え) 」し → 7月15夜の『満月 ≒ 望月 (もちつき / 餅つき) 』になると、御先祖様を あの世に「ウ-クイ (お送り) 」します。
ー・→
旧暦の7月13日に、
門中 (むんちゅう) ≒ 親戚一同が集まり、仏壇にいる『トートーメー (御先祖様) 』に供え物をして 心の中で「うーとーとー」と唱え、あの世から御先祖様を「ウンケイ (お迎え) 」します。
ー・→
7月15夜の『満月 ≒ 望月 (もちつき / 餅つき) 』になると、
門中 (むんちゅう) が集まり、供物とともに打紙 (ウチカビ) を焚いて ↑ 煙りとともに ↑ 御先祖様を あの世に「ウ-クイ (お送り) 」します。その時も心の中で「うーとーとー」と唱えます。
☆ ♪ ★ ♪ ☆ ♪
(・・? もしかすると?!
打紙 (ウチカビ) も?!
「三途川の渡し賃」の役割を?と、
―…―…→→
通説では、トートーメー とは尊い方の前 ≒ 御先祖様と解釈されていますが、
⇔
異説として、トートーメー とはトト神 ≒ 月の神の前 と説もあります。
古代オリエントの「トト神」は「月の神」という属性を持ち、ギリシャ植民者がエジプトに普及させたとも云われています。
また、沖縄の幼児言葉では「お月さま」の事も「トートーメー」と言い、
心の中で唱える「うーとーとー 」の「うー」とは『オーマイゴット』の『オー』と同じで、
「うーとーとー 」とは古代オリエントの「あートト神よ」と言葉が訛化したもので、中国宗教の『儒教と道教』に触れて、儒教的な祖先崇拝や道教的な打紙 (ウチカビ) 儀式に変化したもの。そのほか、古代オリエントのライオンがシーサーに変化した。と説もあります。
━↓─━─扉─━─↓━
琉球の王様は、
てだ子 (太陽の子) と云われ、
その後ろには、
∧ 斉場御嶽 (せーふぁウタキ) ♀ と久高島 (太陽の島) があり、太陽信仰をしていました。
斉場御嶽は知念半島にあり、その地は東御廻り (あがりウマーイ) という太陽信仰が盛んに行われていました。
その反対側には ⇔ 与勝半島があり、その地は旧暦の7月15夜に念仏廻りなどの月星信仰が盛んに行われています。
むかし、与勝半島の城 (グスク) と知念半島の城 (グスク) では『政略結婚』のようなものが行われていました。
与勝半島には勝連城 (かつれんグスク) がありました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%80%A3%E5%9F%8E
9代目・勝連城主は茂知付 (もちづき) 氏で、茂知付も『満月 (望月 / 餅つき)』を意味していました。
その後、茂知付 (望月 / もちづき) 氏は阿麻和利 (あまわり) という人に亡ぼされます。
☆ ♪ ★ ♪ ☆ ♪
歴史本では、10代目の勝連城主・阿麻和利の妃は百度踏揚 (ももとふみあがり) と事がよく知られています。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%BA%A6%E8%B8%8F%E6%8F%9A
しかし、百度踏揚は2回目の結婚で、阿麻和利の1回目の結婚相手は『茂知付ヌル』という女性でした。
阿麻和利は、9代目・勝連城主の茂知付氏を亡ぼしたけど、茂知付氏の女性である『茂知付ヌル』を最初の妃にしていました。
*政略結婚
ー (・・? ー?→
実はその政略結婚の起源を辿ると、ギリシアにたどり着き、さらに辿ると?!
ペルシアにたどり着く? 云われています。
んなわけない
おもう方もいるかもしれませんが、
「三途川の渡賃」の お話もギリシャ神話のアケローン川 (嘆きの川) が由来とされ、ギリシア人のアレキサンダー大王がペルシア帝国を亡ぼし → ギリシア人♂はペルシア人♀と政略結婚をし → 東征。その時代に仏教と出合い → 仏教は中国宗教の儒教と道教に吸収されて日本に渡りました。
―…―…→→
(・・? そのほか?
東御廻り (あがりウマーイ) という太陽信仰が盛んに行われていた知念半島の先には「海野」という部落があります。
(・・? 偶然にも?
真田幸村の古里は「東御市」になっている? とも云われています。
☆ ♪ ★ ♪ ☆ ♪
なぜか?
沖縄県旗は『月星紋』に似ている。
姿を消した 賊軍
朝鮮半島では高麗 (こうらい) の時代。
高麗政権のもと「私兵」から「官兵」になり、後ほど『賊兵』になった三別抄 (さんべつしょう) という軍組織がありました。
当時の高麗王朝は決して『一枚岩』ではなく、1271年5月に高麗の賊兵となった三別抄は、高麗の官兵に追い詰められ、朝鮮半島の南の珍島と済州島で陥落し、姿を消しました。
ー・→
鎌倉時代の元寇 → 蒙古襲来の時期、神風 (二度の台風) で大規模な上陸を防いだ。と事はよく知られていますが、その他にも、高麗の逆賊 = 三別抄が 元 と 元 の従属国になった高麗に反抗をしていたので、日本への大規模な上陸が免れた。という お話があります。
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%AA%95%E7%94%9F-3-NHK%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%AA%95%E7%94%9F%E5%8F%96%E6%9D%90%E7%8F%AD/dp/404521903X
もしも?! 三別抄の乱 (内乱) がなかったら、日本も 元 の1部になっていたかも? と お話です。
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12世紀 / 中国大陸の北部では、契丹族の『遼』が支配しており、遼 は度々『高麗』に進入していました。
その間、女真族の 金 が 遼 を亡ぼし ⇔ 蒙古族の 元 が 金 を滅ぼし → 漢民族の 南宋 をも滅亡させて、中国大陸を支配して行きました。
引き続き『元』も『高麗』に進入します。
(・・? ー?→
12世紀の初め、
モンゴル系の契丹族 (遼) に支配されていた女真族が『金』という国を名乗り独立運動を始めました。金 (女真族) は 宋 (漢民族) と手を結んで1125年に 遼 (契丹族) を亡ぼします。
その後、金 は 宋 をも脅かし、女真族の 金 が中国の華北を占領し、漢民族の 宋 は中国の江南に逃れて 南宋 を建てました。
*それ以前の宋を北宋と区別
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%8B
ー・→
1125年にモンゴル系の遼 (契丹族) が滅亡してから81年後の1206年、モンゴル部族のテムジンがに部族長の集会で君主となるハンの位につき、チンギス=ハンとなり、モンゴル帝国を建てました。
モンゴル帝国は、モンゴル系の遼 (契丹族) を亡ぼした 金 (女真族) を滅ぼし、中国の華北を領有した。
さらにその後、
モンゴル帝国は中国の江南にあった南宋 (漢民族) も滅亡させ、1271年に 元 (げん) という国を建てました。
中国大陸を支配した元 (蒙古族) は → 高麗 → 日本にも進出して行きます。
―…―…→→
13世紀 / 鎌倉時代、
朝鮮半島では高麗 (こうらい) の時代。
高麗王朝の政権は、文班 (文臣政権) と武班 (武臣政権) の2つ政権 = 両班 (やんばん) から成っており、文班 > 武班の関係であったようです。
中国大陸を支配した『元』が『高麗』にも進入して来るようになると、これまでの文班 (文臣政権) から 武班 (武臣政権) へ政権運営が以降し、文班 > 武班の関係から武班 > 文班の関係に逆転しました。
『高麗』は30年ほど『元』に抵抗し続けました。しかし、長期の戦争に疲れ果て、『元』に従おうとする勢力が武臣政権を倒し、再び文臣政権に逆転します。そして『元』に入朝して降伏、戦争は終結しました。
それ以来『高麗』は『元』の従属国となり、日本にも進入して行きます。
鎌倉時代、2度の元寇には、『元の人』よりも⇔『元』に国を奪われた『宋の人と高麗人』が多く乗っていました。
高麗人どうしでも『内紛』がありました。
文班 (文臣政権) に敗れた 武班 (武臣政権) の残党は、その後も抵抗し続け、南下をして行き『三別称』と呼ばれいました。
ー・→
三別抄は1271年5月に、
高麗・元の連合軍の攻撃を受け、根拠地だった珍島と済州島で陥落し、姿を消しました。
元寇 → 日本遠征のための軍艦を建造した高麗の1部民衆は、ひそかに船を焼いたり、三枚の船板を一枚にしたり、梁 (はり) や桟をつけない『手抜き工事』をしました。その船が日本の嵐の中で沈没しています。
*手抜き工事をしていたのは三別抄の残党
高麗王朝は「元」の従属国となりましたが ⇔ 三別抄は抵抗し続けました。当時の『高麗』は、決して『一枚岩』ではなかったのです。
ー?→
やがて 元 は 日本 にも手をのばし、1268年には、朝貢を求める国書を高麗使を通じて日本に送りました。鎌倉幕府の北条時宗がこれを拒絶すると、軍事的緊張が走りましたが、すぐには戦いになりませんでした。
というのは、高麗で三別抄の残党が 江華島 ~ 珍島、済州島を拠点に抵抗していたので日本は防備を整える時間を稼ぐことができたのです。三別抄の乱が鎮圧されたのが1273年、元と高麗の連合軍が日本を襲った (文永の役 / 元寇) のが1274年でした。
元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。1度目を文永の役(1274年)、2度目を弘安の役(1281年)という。蒙古襲来とも。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
―…―…→→
13世紀 / 高麗王朝の、
武班 (武臣政権) の中に三別抄 (さんべつしょう) という臨時の軍事組織がありました。
「別抄」とは、別 に組織された 抄 と意味。
「抄」は没収を意味し、反乱を起こした地域へ派遣され、反乱鎮圧後に没収した財産を分け与えられる臨時の軍組織 (私兵) であった。
*別抄は臨時軍
当初は、夜間の盗賊取締りをする「夜別抄」に起源をもつ臨時組織であったが、続発する反乱により半ば常備軍化し、左別抄 と 右別抄の2部隊となり、後ほど 元 (蒙古族) の捕虜から脱出した人員による「神義軍」を加えて『三別抄』と呼称されるようになった。
崔氏政権 (武班) のもとで拡大され、 元 (蒙古族) との戦いの際には「官兵」の役割もしていたようです。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%A5%E6%8A%84
ー?→
[ 三別抄の乱 ]
1270年、高麗における元の支配に対して起こった反発運動。三別抄は、もとは武臣政権 (武班) の臨時軍であったが、文臣政権 (文班) が 元 に服属したことに対して反乱を起こし、民衆の支持のもと珍島、済州島を拠点に高麗の官兵に反発し続けました。
1271年5月に高麗の賊兵となった三別抄は、高麗と元の連合軍に追い詰められ、1273年に朝鮮半島の南の珍島と済州島で陥落し、姿を消しました。その翌年の1274年、元軍は高麗軍を動員して日本遠征 (文永の役 / 元寇) に向かった。
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平成9年、
沖縄県浦添市の伊祖城跡、浦添城跡から「癸酉年高麗瓦匠造りの銘」の入った瓦が出土して、世間の人々を驚かせました!それだけでなく、高麗瓦の工場窯跡まで発掘されました。これまで、板葺きだと見られた伊祖城、浦添城の上には『板』ではなく『瓦』が乗っていた可能性がある驚くべき出土でありました。
今では信じられませんが、
浦添城の屋根瓦 (高麗瓦) の色は『赤い瓦』ではなく ⇔『黒い瓦』だと見られています。
ー?→
中山国 (琉球国) の都は、
舜天王統 (3代) → 英祖王統 (5代) → 察度王統 (2代) まで『浦添城』を拠点とした「古琉球」⇔ 第一尚氏 (7代) → 第二尚氏 (19代) まで『首里城』を拠点とした「近世琉球」に分類されています。
ー・→
近年、浦添城跡から「癸酉年高麗瓦匠造りの銘」の入った高麗瓦が出土した事について、浦添城時代の癸酉 (みずのとり) 年は時代背景からすると、1273年・英祖王の時代が有力とされています。
英祖王統 (5代) の時代の浦添城の屋根瓦も『黒い屋根瓦』だったと判明するようになっています。
古琉球の都 = 浦添城 (黒い瓦) ⇔ 近世琉球の都 = 首里城 (赤い瓦) 。
ー(・・? ー・ー
1271年 (英祖12年) 5月、
朝鮮半島の南では、高麗・元の連合軍の攻撃を受け、『三別抄』の根拠地だった珍島と済州島が陥落するという出来事がありました。
もしも?!
平成9年に沖縄県浦添市の浦添城跡から出土した「癸酉年高麗瓦匠造りの銘」の入った瓦が、浦添城時代 → 1273年 (英祖14年) の癸酉 (みずのととり) 年 だとすると ?
『三別抄』の根拠地だった珍島と済州島が陥落した年のわずか2年後になります。
浦添城を都としていた 英祖 王の時代に、
1度目の文永の役(1274年)、2度目の弘安の役(1281年)という元寇 (蒙古襲来) が起きていました。
―…―…→→
三別抄のその後について 編集
20世紀後半に、沖縄県浦添市浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が珍島に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、癸酉年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。これが1273年だとすれば、三別抄が済州島で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測する研究者もいる。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%88%A5%E6%8A%84
ー・→
(・・? ー?→
沖縄言葉では、
「お茶碗」の事を『まかい』というのだが、どうやらその語源は朝鮮由来とも云われています。
*お茶碗 = まかい
━↓─━─扉─━─↓━
かつて、
朝鮮半島には私兵から官兵 →
官軍から賊軍になった三別抄という組織がありました。
1271年5月に高麗の賊兵となった三別抄は、高麗の官兵に追い詰められ、朝鮮半島の南の珍島と済州島で陥落し、姿を消しました。
(・・? もしかすると?
お話です。
マジムン と 石敢當
日本人はタクシーの後ろに座る人が多いと思います。
(・・!ところが ⇔ 中国人は違いました。
中国人はタクシーの前に座る人が多いと云われています。
(・・? 日本人と中国人は何かが違うのか?
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実は、日本人は角 (カド) 好きが多いと云われています。
例えば、パンの耳やプリンの角、カステラの角、山の上の お城や角部屋、電車の隅っこ。そのほか、日本人は狭い所 / 縦列駐車を得意としています。その事は、世界各国の人々が見ると珍しいといいます。
どうやら? 島国と大陸とで違いが出たとも云われ、古くは お城造りにも影響しているようです。
http → 城郭都市 → https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%83%AD%E9%83%BD%E5%B8%82
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先日、直線的な日本橋と曲線的な中国橋を見て おもしろいな。と思いました。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e9542821.html
日本橋(左)と中国橋(右)。
やはり日本人は直線的な角 (カド) が好きなのか? 思えて来ました。
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中国のお城はどういう造りなのか? わかりませんが、
琉球のお城は角 (カド) が少なく、
中国的な ある宗教観の影響を受けているようです。
その宗教観によると、角 (カド) には魔物 (マジムン) が潜むと云われていました。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7454034.html
琉球に、そうした宗教観を伝えたのは客家 (はっか) 人でした。
客家 (はっか) 人は、 福建省福州市 (略称・閩 (びん) と称す地域に、客家円楼 (はっかえんろう) という円形の城塞のような土楼に住んでいました。
http → 客家 → https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A2%E5%AE%B6
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マジムンは直線的な動きをします。
マジムンの動き方は 「お掃除ルンバ」 の進行方向と似ていました。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8043697.html
マジムン対策 http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7626597.html
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ある方は、電車の隅っこに座ると『体調不良を引き起こす場合がある』とおっしゃっていました。
(・・;) それは ; 電車の角にはマジムンが潜んでいるからです。
ー*→
(・・;) やはり ;
角 (カド) は危険です。
ー*→
どうしても角が発生する時、
「石敢當 (いしがんとう) 」http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7454034.html
日本橋と中国橋
http://globe.asahi.com より
ー競争?共存? 隣り合う日本橋と中国橋ー
カンボジアの首都プノンペンを流れるトンレサップ川に「日本橋」と呼ばれる古い橋が架かっている。1963年に日本の資金協力でできた。だが最近、そのすぐ隣に『中国橋』ができた。競い合うように並ぶ二つの橋。いったい、どんな事情があるのか。(佐々木学)
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日本橋の正式名称はチュルイ・チョンバー橋。市中心部と開発が進む東部とを結ぶ重要な橋。タクシー運転手のポブ・リンダ(36)は「以前は日本橋しかなくて渋滞がひどかった。中国橋が隣にでき、上りと下りが分かれたので、通行がスムーズになった」と喜ぶ。「日本も中国もどっちも大事。カンボジアはまだ貧しいから、どっちの支援も歓迎だ」と言う。
日本橋(左)と中国橋(右)。http://globe.asahi.com/feature/side/2016042800009.html
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(・・;) 記事の内容とは関係ありませんが、
カンボジアに造られた2つの橋脚を見比べてみると?!日本橋は直線 ⇔ 中国橋は曲線。していた。
(・・? 意外な事に、日本へアーチ状の橋脚をした「曲線橋」が普及したのは新しい出来事だと云われています。
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1643年に石造アーチ状の眼鏡橋 (メガネばし) が造られた。
眼鏡橋 (メガネばし) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%BC%E9%8F%A1%E6%A9%8B_(%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%B8%82)
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1673年に木造アーチ状の錦帯橋 (キンタイきょう) が造られた。
錦帯橋 (キンタイきょう) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%B8%AF%E6%A9%8B
そして、石造の眼鏡橋 (メガネばし) と木造の錦帯橋 (キンタイきょう) は同じ共通店があり、中国 / 明の僧侶と関係しているようです。
ー?→
眼鏡橋 (メガネばし) は、長崎市の中島川に架かる石造二連アーチ橋で架橋時で、日本初の石造りのアーチ橋。
1634 (寛永11) 年、中国から来日して興福寺の2代目住職となった黙子如定 (モスクにょじょう) によって架けられた。黙子 (モスク)
は中島川の氾濫のたびに橋が流失されるのを見かねて、中国から石工を呼び寄せて眼鏡橋を建造させたといわれている。
黙子如定 (モスクにょじょう) は、明末清初に来日した中国の禅僧。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%99%E5%AD%90%E5%A6%82%E5%AE%9A
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そして、錦帯橋 (キンタイきょう) のエピソードには、こんな お話があります。
中国政府が明清交替 (政権交代) に移る時代、中国浙江省杭州市から、僧侶・独立 (どくりゅう) 禅師が清朝を嫌って日本 / 長崎に渡った。
最初は、長崎で名医として知られた独立禅師は、周防国・岩国藩の三代目・吉川広嘉の病気治療ため岩国を訪れました。
当時、長大な洪水にも耐える岩国城と城下町を結ぶ『橋』を必要としていました。岩国の錦川に架かる真っ直ぐな橋は何度も崩壊、流失を繰り返していた。
独立禅師が持ってきた白居易の絵 (え) には、川に『アーチ』で橋脚を結ぶという当時の常識を超える画期的な構想が描かれていました。そこで吉川広嘉は、杭州・白堤の錦帯橋をヒントに、岩国にも同名の『錦帯橋』を造る決心をしました。その後、岩国の錦帯橋は木の橋として世界的に珍しい橋となった。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%B8%AF%E6%A9%8B
独立 (どくりゅう) 禅師 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%80%A7%E6%98%93
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石造の眼鏡橋 (メガネばし) を設計したと云われる黙子如定 (モスクにょじょう) と、木造の錦帯橋 (キンタイきょう) のヒントを与えた独立 (どくりゅう) 禅師は、中国政府が明清交替 (政権交代) に移る時代に長崎にやって来た僧侶で、政治的亡命者であったとも云われています。
ー関連情報ー
日本乞師 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B9%9E%E5%B8%AB
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「曲線橋」のほか、ラーメンとインゲン豆も同時期に日本にやって来ました。その 曲線橋とラーメンとインゲン豆、日本への玄関口は同じ長崎から普及しているといいます。
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黙子如定 (モスクにょじょう) も独立 (どくりゅう) 禅師も中国では同じ臨済宗黄檗派の禅僧であったが、鎌倉時代ころから日本に普及していた臨済宗とはタイプが違っていたので日本では臨済 (りんざい) 宗ではなく黄檗 (おうばく) 宗と呼ばれるようになったようです。
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黙子如定 (モスクにょじょう) は長崎の興福寺に入寺し、後ほど 隠元隆琦 (インゲンりゅうき) の招致運動を援助した。
隠元隆琦 (インゲンりゅうき) は、中国・明代の万暦20年(1592年)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元は当時中国においても高名な僧で、その名声は日本にも届いていた。
隠元隆琦 (インゲンりゅうき) が明代の福建省福州府から招かれて来日するのは1654年(順治11年、承応3年)、63歳の時である。
万治元年(1658年)に隠元は江戸へおもむき、4代将軍・徳川家綱に拝謁している。家綱も隠元に帰依し、幕府によつて山城国宇治 (現・京都府宇治市) に土地が与えられ、隠元のために新しい寺が建てられることになった。寺の名前は、故郷・福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられた。 *江戸時代の事である。
隠元隆琦 (インゲンりゅうき) は、京都府宇治市にある黄檗 (おうばく) 宗の寺院。万福寺 / 萬福寺 (まんぷくじ) の本店を建てた。
京都府宇治市には、黄檗 (おうばく) 駅があるといいます。
黄檗 (おうばく) 宗は 日本の仏教各派の中では新しく、黄檗宗の中心寺院で、明の僧・隠元 (いんげん) を開山に請じて建てられた中国色をした宗派。日本の一般的な仏教寺院とは異なった景観を有するようです。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%90%AC%E7%A6%8F%E5%AF%BA
インゲン豆は、明の僧・隠元隆琦 (インゲンりゅうき) の名に由来するという。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%A1
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小田急・百合丘駅のとなりに、小田急・新百合丘駅がある。しかしその住所は、神奈川県川崎市麻生区万福寺になっています。
その、新百合丘という駅名は「あだ名」で⇔『本名』は万福寺 / 萬福寺 (まんぷくじ) なのかもしれません。
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内容は飛んでいますが、
日本初の曲線橋は長崎県の眼鏡橋 (メガネばし) と云われていますが、沖縄県にも石造の曲線橋があります。
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1502年 / 中国は明代 / 日本は室町時代
天女 (てんにょ) 橋は、沖縄県の首里城北側の円鑑池に架かる石造アーチ橋で、円鑑池の中島にある弁財天堂へ渡る橋。1502年 (尚真王26年) に造られた日本に現存する最古の石造アーチ橋。と云われています。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%A5%B3%E6%A9%8B
天女橋 は誰が造ったのかは? 解っていませんが、中国南部にも同様な造りの曲線橋が複数見られる事から中国系の人が設計した橋だと思われます。そして、天女橋 は日本最古の現存する曲線橋で国の重要文化財に指定されています。
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昭和の初め頃まで、
長虹堤 (ちょうこうてい) という橋と堤からなる海中道路がありました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%99%B9%E5%A0%A4
長虹堤 (ちょうこうてい) は全長約1キロメートルの堤防と橋からなる海中道路で、浮島 (那覇の港) と首里とを結びました。
今は現存していませんが、
ところどころアーチ状の曲線橋をしていたようです。
1450 (景泰元) 年に琉球国王に即位した尚金福 王は1451年、翌年の冊封使を迎えるにあたり那覇島 (浮島) と沖縄島 (首里の都) とを結ぶ長虹堤 (ちょうこうてい) の建設を決め、当時の宰相・懐機 (かいき) に下命した。
長虹堤 (ちょうこうてい) の建設を担当した宰相・懐機 (かいき) は、浮島 = 那覇の久米村に住む中国人 ≒ 客家 (はっか) 人でした。
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『ぶらタモリの番組』でも長虹堤 (ちょうこうてい) について上映されたようです。
http://xckb.hatenablog.com/entry/2016/03/15/122504
葛飾北斎・琉球八景「長虹秋霽」でも長虹堤 (ちょうこうてい) はアーチ状に描かれているようです。
『ぶらタモリの番組』
CG 映像
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ところ変わって、
東京都にある日本橋。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A9%8B_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA)
なんだか?!
日本橋も中国橋の造りに?
(・・;) 言ってしまうと ;