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西の京 と 南の京

1453年、
琉球国 / 第一尚氏王統の5代・尚金福 王が亡くなる。

雷 それを受けて 爆弾
尚金福 王の 子・志魯 (しろ) と 弟・不理 (ふり) 王位継承権を争い「首里城」が炎上 雷 そして 爆弾 志魯 と 不理 ともに戦死しました。


5代・尚金福 王(5男)の「」ともに亡くなったので、弟(6男)の 弟(7男)である越来 (ごえく) 王子が琉球国 / 第一尚氏王統の6代・尚泰久 王として即位しました 王冠2
6代・尚泰久 王 (越来王子) は、今の沖縄市にある越来 (ごえく) 城から那覇市にある首里 (すい) 城に拠点を遷しました。

首里城が本店 てんびん座 越来城が支店という関係。

(・・? それは‥ 棚からぼた餅はてなマーク
ような お話にも見えます。

ー?→


5代・尚金福 王が亡くなり、志魯・布里の乱が起きた1453年 ~ 3年後の1456年に首里城は復興。同時に てんびん座 大量の梵鐘 (ぼんしょう) が造られました。
*梵鐘 ≒ 仏教用品

カゼ それは言いにくい お話ですが;

陰謀に「いんぼう」を重ねて王になった尚泰久 王は、後ろめたさ、怨霊信仰から仏教に帰依したとも云われています。 


尚泰久 王は、歴代の琉球国王の中で最も仏教に帰依した王であると同時に、多くの寺院建立、銅鐘製造など‥ しました。


記録に残るだけでも三十口ほど、梵鐘が短期間で大量に鋳造され、わずか一時期、一地域でこれほどたくさんの梵鐘が鋳造されたのは、中国や日本の歴史に照合しても希有な時代でありました。

その梵鐘 (ぼんしょう) の中には、通称・万国津梁の鐘 (かね) と呼ばれ、首里城の正殿に掛けられた鐘も含まれていました。



その 「万国津梁の鐘」には『碑文』が書かれており、碑文(漢文)の鐘銘を書いたのは、 京都五山僧の 渓隠安潜(けいいんあんせん)という禅僧、鐘を造ったのは藤原国善 (ふじわらのくによし) という鋳物師でありました。


ひらめき電球 万国津梁の鐘 の文容には『外交的なメーセージ』が記されていたようです。


今は違うところに安置していますが、

政 (まつりごと) → 「政治と祭祀」 を行う首里城の正殿に万国津梁の鐘が掛けられていました。


ー(・・? ー?→


実は、


今でも?‥


沖縄県の応接室 (来賓場) には、鐘の碑文があるといいます。

今でも、政治の『外交メーセージ』を行う所に万国津梁の鐘の碑文 (漢文) があるようです。

碑文の末尾には「明の天順二年 (1458年) 6月19日、鉄の大工 / 鋳物師・藤原国善 (ふじわらのくによし) が鐘を作り、相国寺に住む禅僧・渓隠安潜 (けいいんあんせん) が文字を記した」 と、あるようです。

ー(・・? ー?→

当時の相国寺は琉球にあった禅寺の名前ですが、日本 (京都) にも同名の禅寺があり、関連していた可能性は高いようです。


日本の相国寺 (禅寺) には、通称・金閣寺銀閣寺といった有名寺院が付随しているのですが、南禅寺 (禅寺) や円覚寺 (禅寺) などのような史料が少ない影響からか? その役割 (実態) はあまり世に知られていないといいます。


ー・→


相国寺と通称・金閣寺 (鹿苑寺) は、室町幕府の3代将軍・足利義満が同時期に建てた禅寺。その相国寺金閣寺 (鹿苑寺) も 足利義満 に由来する寺名といいます。


(・・? どうやらはてなマーク

相国寺足利義満の職名・相国 (ショウコク) てんびん座 金閣寺 (鹿苑寺) は足利義満の法名・鹿苑 (ろくおん) を意味しているようです。

*職名と法名?


ご迷惑をおかけします 相国 (ショウコク) とは ご迷惑をおかけします

中国風な呼び名で、国政を相 (たす) ける人の意味で宰相や大臣のこと。

*相 ≒ 臣


〈例〉

首相 = 総理大臣 / 宰相 (さいしょう)


相国は 太政大臣・左大臣・右大臣 の唐名。時代によつて、相邦 / 相国 / 丞相 (じょうしょう) など、記載。

https://kotobank.jp/word/相国-531497


ー?→


足利義満も「太政大臣」になっていた事から、太政大臣の唐名・相国が寺の名前になっているように思われます。

*相国 ≒ 太政大臣


ー・→


 ー 相国寺 (ショウコクじ) ー

本尊は釈迦如来、開基は足利義満、開山は夢窓疎石。


足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺金閣寺)、慈照寺銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。

https://ja.m.wikipedia./相国寺



ダンプカー―…ご迷惑をおかけします―…ご迷惑をおかけします工事中


内容は複雑していますが、
もう一度、上記の文を載せて見ました。

   ー↓ー↓ー

5代・尚金福 王が亡くなり、志魯・布里の乱が起きた1453年 ~ 3年後の1456年に首里城は復興。同時に てんびん座 大量の梵鐘 (ぼんしょう) が造られました。
*梵鐘 ≒ 仏教用品

6代・尚泰久 王は、歴代の琉球国王の中で最も仏教に帰依した王であると同時に、多くの寺院建立、銅鐘製造など‥ しました。


   ー↓ー↓ー

1456年 ~
6代・尚泰久 王の時代の日本は、金閣寺 (足利義満) の時代ではなく、銀閣寺 (足利義政) の時代でありました。

ー?→

室町幕府の8代将軍・足利義政
足利義政は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。

ご迷惑をおかけします 室町時代 ご迷惑をおかけします
金閣寺は絶頂期 ⇔ 銀閣寺は衰退期、
金閣寺北山文化 ⇔ 銀閣寺東山文化
絢爛豪華な金閣寺 ⇔ 侘しく寂しい銀閣寺。


ー てんびん座 ー てんびん座 →

金閣寺 (鹿苑寺) は室町幕府の3代将軍・足利義満が建てた禅寺 てんびん座 銀閣寺 (慈照寺) は8代将軍・足利義政が建てた禅寺で てんびん座 両寺は対照的に比較される事が多いようです。

ひらめき電球

ひらめき電球 通称・金閣寺銀閣寺も『相国寺』の境外塔頭寺院との事です。

*相国寺派


また、今の僧侶 と 昔の僧侶 は異なり、室町時代の僧侶は政治家。あるいは政治顧問の役割をしていたようです。

*寺院 ≒ 政治施設


ー・→

通称・万国津梁の鐘 (かね) 、


碑文の末尾には「明の天順二年 (1458年) 6月19日、鉄の大工 / 鋳物師・藤原国善 (ふじわらのくによし) が鐘を作り、相国寺に住む禅僧・渓隠安潜 (けいいんあんせん) が文字を記した」 と、あるようです。


銀閣寺 (足利義政) の時代ころ ~ 東の京は「衰退期」に突入して行きます →

  ⇔  その一方、

西の京 と 南の京は『絶頂期』を迎える事になって行きます →


碑文の末尾には「鉄の大工 / 鋳物師が鐘を作り、相国寺に住む禅僧が文字を記した」 と、あるようです。

(・・? その色 (いろ) の組合せははてなマーク
どこかで見た事あるように思えて来ました。

ー?→

どうして日本は、昔から外交音痴なのか? 東の京は「衰退期」に突入して行く一方 ⇔ 西の京 と 南の京は『絶頂期』を迎える。その理由は何か? その事とも関連しているかもしれません。

ひらめき電球武家の足利義満は「太政大臣」≒『相国』になっていましたが、太政大臣 (相国) という職名は、公家 (朝廷) から与えられる職名。

武家の身で『太政大臣 (相国) 』という職名を与えられたのは、平安時代の武家・平清盛以来の事であったようです。

平安時代の武家・平清盛日宋貿易 → 室町時代の武家・足利義満日明貿易をしていた事で知られ、ともに武家の身でありながら公家より『太政大臣 (相国) 』という職名を与えられていた事になります。

日本の権力構図はとても複雑で、武家・公家・寺家、そして。あったように思えて来ました。

(・・? その色 (いろ) の組合せははてなマーク
また考えて見たいです。



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Posted by 阿佐工房 at 2019年02月09日   00:03
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