西の京 と 南の京
琉球国 / 第一尚氏王統の5代・尚金福 王が亡くなる。
ような お話にも見えます。
陰謀に「いんぼう」を重ねて王になった尚泰久 王は、後ろめたさ、怨霊信仰から仏教に帰依したとも云われています。
尚泰久 王は、歴代の琉球国王の中で最も仏教に帰依した王であると同時に、多くの寺院建立、銅鐘製造など‥ しました。
記録に残るだけでも三十口ほど、梵鐘が短期間で大量に鋳造され、わずか一時期、一地域でこれほどたくさんの梵鐘が鋳造されたのは、中国や日本の歴史に照合しても希有な時代でありました。
その梵鐘 (ぼんしょう) の中には、通称・万国津梁の鐘 (かね) と呼ばれ、首里城の正殿に掛けられた鐘も含まれていました。
その 「万国津梁の鐘」には『碑文』が書かれており、碑文(漢文)の鐘銘を書いたのは、 京都五山僧の 渓隠安潜(けいいんあんせん)という禅僧、鐘を造ったのは藤原国善 (ふじわらのくによし) という鋳物師でありました。
万国津梁の鐘 の文容には『外交的なメーセージ』が記されていたようです。
今は違うところに安置していますが、
政 (まつりごと) → 「政治と祭祀」 を行う首里城の正殿に万国津梁の鐘が掛けられていました。
今でも?‥
沖縄県の応接室 (来賓場) には、鐘の碑文があるといいます。
ー(・・? ー?→
当時の相国寺は琉球にあった禅寺の名前ですが、日本 (京都) にも同名の禅寺があり、関連していた可能性は高いようです。
日本の相国寺 (禅寺) には、通称・金閣寺や銀閣寺といった有名寺院が付随しているのですが、南禅寺 (禅寺) や円覚寺 (禅寺) などのような史料が少ない影響からか? その役割 (実態) はあまり世に知られていないといいます。
ー・→
相国寺と通称・金閣寺 (鹿苑寺) は、室町幕府の3代将軍・足利義満が同時期に建てた禅寺。その相国寺も金閣寺 (鹿苑寺) も 足利義満 に由来する寺名といいます。
(・・? どうやら
相国寺は足利義満の職名・相国 (ショウコク) 金閣寺 (鹿苑寺) は足利義満の法名・鹿苑 (ろくおん) を意味しているようです。
*職名と法名?
… 相国 (ショウコク) とは →
中国風な呼び名で、国政を相 (たす) ける人の意味で宰相や大臣のこと。
*相 ≒ 臣
〈例〉
首相 = 総理大臣 / 宰相 (さいしょう)
相国は 太政大臣・左大臣・右大臣 の唐名。時代によつて、相邦 / 相国 / 丞相 (じょうしょう) など、記載。
https://kotobank.jp/word/相国-531497
ー?→
足利義満も「太政大臣」になっていた事から、太政大臣の唐名・相国が寺の名前になっているように思われます。
*相国 ≒ 太政大臣
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本尊は釈迦如来、開基は足利義満、開山は夢窓疎石。
足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
6代・尚泰久 王は、歴代の琉球国王の中で最も仏教に帰依した王であると同時に、多くの寺院建立、銅鐘製造など‥ しました。
通称・金閣寺も銀閣寺も『相国寺』の境外塔頭寺院との事です。
*相国寺派
また、今の僧侶 と 昔の僧侶 は異なり、室町時代の僧侶は政治家。あるいは政治顧問の役割をしていたようです。
*寺院 ≒ 政治施設
碑文の末尾には「明の天順二年 (1458年) 6月19日、鉄の大工 / 鋳物師・藤原国善 (ふじわらのくによし) が鐘を作り、相国寺に住む禅僧・渓隠安潜 (けいいんあんせん) が文字を記した」 と、あるようです。
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