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辺境の地 → その1

1432 (永亨4) 年
太田道灌 (おおたどうかん) は、戦国の風雲児・北条早雲と同い年で、上杉定正 (扇谷家 / おうぎがやつ) の家老の子として、相模国の糟屋に生まれた。

1456 (康正2) 年
辺境の地 → その1
太田道灌は、武蔵国の寒村 (さみしい田舎) に江戸城を作る計画、そして築城に着手し始めた。

「武の社会 (権力) 」 では、
→ 室町幕府の足利家 →織田信長 → 明智光秀 (3日天下) → 豊臣秀吉 → 徳川家康‥ という『政権交代』が行われました。


ー・→


1590 (天正18) 年
豊臣秀吉は、戦国の風雲児・北条氏を亡ぼす。同年8月1日、豊臣秀吉の子分・徳川家康は、江戸城と城下町を視察。


ー・→


豊臣秀吉よりも前の将軍・織田信長が全国統一をしたと云われていたが、まだまだ 東日本には、豊臣政権 (中央政権) の言うことを聞かない人々がたくさん住んでいました。*当時、豊臣政権の主従関係は 「豊臣秀吉 > 徳川家康」

一説によると、
豊臣秀吉は徳川家康の権力を弱めるため東日本 (辺境の地) に徳川家康 (子分) を派遣し、同時に全国統一を目指していたと云われています。*一石二鳥ため、

これまで、東海5ヶ国を治めていた徳川家康は、関東7ヶ国へ国替えを命じられ → さらに辺境の地へ行く事となる。*当時、徳川家康の家臣も不満をもらしていた。

しかも徳川家康は、関東7ヶ国のうち、開けていた小田原や鎌倉ではなく ⇔ 江戸 (さみしい寒村) に拠点を置いたのも 「謎 (なぞ) 」 と云われている。


ー・ー


伝承によると、
当時の江戸城回りは、農作も不便な湿地帯で、茅葺きの家が100戸程度あるだけの『辺境の地』であり、何も無い 「寒村 / さみしい田舎」 だったと云われている。

一般的見解でも、
今の東京都の 「インフラ整備 / 都市計画作り」 の地盤を築いたのは、太田道灌 ~ 徳川家康が江戸へ入城した頃から始まったと思われています。

ところが ⇔

その見解も大方間違いではないが、いうほど『辺境の地 / さみしい田舎』でもなかったようです。

辺境の地 → その1
太田道灌が江戸城を築城したころ、江戸一帯には 「豊島一族」 が住んでおり、何度か衝突し、最終的に「江古田原古戦場」という所で『太田道灌vs豊島一族』の戦いがあったと云われています。

中世 「豊島一族」 の支配地は、今の東京都千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区および練馬区の一部が、東京府豊島郡 / 豊嶋郡 になっており、中世 「豊島一族」 の支配地は江戸城あたりとかなり重なると云われています。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E9%83%A1_(%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD)


詳しくは知らないが、
江戸城や城下町が整備されると、 「豊島一族」 の支配地は北の方に狭まったように思われます。

「豊島一族」 は、桓武平氏の分家 → 秩父氏の分家で、平安時代に桓武天皇の血筋を持つ坂東8平氏の子孫だといいます。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E6%B0%8F

桓武天皇は子だくさんで、中央の 「公家」 ⇔ 地方の 「武家」 など‥ 桓武平氏、清和源氏という氏名 (うじめい) を持つ武士になった子孫もいました。


ー・→


「公の社会 (権威) 」 では、
葛城族 (賀茂氏など) → 大伴氏 → 物部氏 → 蘇我氏 → 藤原氏 → 摂関政治が続き →

「武の社会 (権力) 」 では、
→ 室町幕府の足利氏 (源氏) →織田信長 (平氏) → 明智光秀 (源氏) → 豊臣秀吉 (平氏) → 徳川家康 (源氏) ‥ という『源平代替』が行われました。* 「源氏や平氏」 という氏名 (うじめい) は、朝廷 (中央) から任命され、清和天皇は桓武天皇の子孫で、桓武 「平氏」 も清和 「源氏」 も桓武天皇の子孫。


ー・→


織田信長のフルネームは
織田弾正忠平朝臣信長 (おだだんじょうのちゅうたいらのあそんのぶなが) → 平氏

徳川家康のフルネームは
徳川次郎三郎源朝臣家康 (とくがわじろうさぶろうみなもとのあそんいえやす) → 源氏

古い文献であるほど、「武士と兵士」 は区分されていたが、時代が進むにつれ曖昧になって行きます。


ー(・・? ー・ー


実は‥ 戦国時代に登場する武士 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康は、桓武天皇の血筋の「源氏や平氏」 という氏名 (うじめい) ではなく ⇔ 系図の氏名 (うじめい) でありました。

本当は、織田信長は平氏ではなく忌部氏、豊臣秀吉はサル? 徳川 (松平) 家康は上野国の新田家 (血筋の源氏) から系図を作成してもらった氏名 (うじめい) であったようです。


ー・→


(・・;) と?いう事は、
上記の文中にあった『1590 (天正18) 年に豊臣秀吉が北条氏 (桓武平氏) を亡ぼしたこと、徳川家康が結果的に 「豊島一族 (秩父平氏) 」 の支配地を狭めたことなど?‥ 不思議な現象が起きていたようにも思えてきます。

「豊島一族」 と北条氏は『血筋の平氏』⇔ 豊臣秀吉と徳川家康は『系図の平氏と源氏』でした。


ー(・・? ー・ー


『血筋の平氏』である 「豊島一族」 と北条氏は、平安時代に朝廷 (中央) から地方に派遣された坂東8平氏の子孫で、平安時代の東国には『夷 (おに / 鬼) 』と呼ばれた人々が住んでいました。

『系図の源氏』である徳川家康は、上野国の新田家 (血筋の源氏) から系図を作成してもらい『征夷大将軍』に任命されていましたが、徳川家康も豊臣秀吉も元は『夷 (おに / 鬼) 』であった説があります。

その説が本当だとすると、あの時の金太郎システム、
辺境の地 → その1
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7081411.html
「夷を以て夷を征す」お話に通じます。*夷 (い)とは、夷 (鬼/おに) の事で、征夷大将軍の「夷」と同じです。


ー・ー


文中には、平安時代ころと戦国 ~ 江戸時代の始まりを載せていますが、鎌倉時代 ~ 室町時代のいきさつを考えると、徳川家康が、関東7ヶ国のうち、開けていた小田原や鎌倉ではなく ⇔ 江戸 (さみしい寒村) に拠点を置いた 「謎 (なぞ) 」 も見えて来るように思えてきました。

辺境の地 → その1
江戸城も中国の四神が用いられ、中央から離れた夷 (鬼/おに) から身を守る風水思想のもと設計されていました。


ー・ー


例えば、
平安時代の平将門、鎌倉末期に登場する後醍醐天皇など‥ 敵の 「てき」 は味方 → 何もかも → 夷 (鬼/おに) も → 利用していました。

桓武天皇は子だくさん、後醍醐天皇も子だくさん、「公の社会 (権威) 」 でも内紛 → 「武の社会 (権力) 」 でも内紛 → そして寺社勢力でも→

敵の 「てき」 は味方 → 何もかも → 夷 (鬼/おに) も → 利用していました。


















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Posted by 阿佐工房 at 2015年12月15日   00:07
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