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白鳥伝説について、


景行53年10月
景行天皇が東国巡幸しました。

「冬十月に、上総国(かづさのくに)に至りて、海路(うみつじ)より淡水門(あわのみなと)を渡りたまふ…」

ー・ー

第12代・景行天皇は、4世紀後半 (351年~) ころ、活躍した人物だと思われます。

景行天皇は、数多く国郡に 巡幸、 行幸、平定、全国制覇を目指していた。その時日本は、まだまだ 「1つの国」ではなく 「いう事を聞かない」人々、国々、たくさんある時代でした。*その中でも、九州島の熊襲 (クマソ) 一族に最も手を焼いていたという。


─━─━─━─


*その物語を、そのまま受け入れると、熊襲 (クマソ) に対して失礼になりますが、話を進めて行きます→

ー・ー

『日本書紀』には、
景行12年、九州島の熊襲 (クマソ) 一族が叛 (そむ)いた‥と、ある。そして、景行天皇みずから九州島平定に向かった。*九州島に住む 熊襲 (クマソ) の一族が朝廷に反抗し、貢 (みつ) ぎ物を差し出しませんでした。景行天皇は 熊襲 (クマソ) 一族を討つことを決意、みずから軍を引き連れ九州各地に転戦、遂 (つひ)に、ことごとく平定、ようやく19年に日本 (ヤマト) に還幸した。

景行27年 秋8月、九州島の熊襲 (クマソ) 一族がまた叛 (そむ) いた。冬10月、日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) を遣わせ、再び討たせた‥と、ある。『日本書紀』景行天皇18年4月条には、「熊県の地」と記され、その辺りが 「まつろわぬ民」 熊襲 (クマソ) 一族の拠点があったとされている。

『古事記』によると、
第12代・景行天皇には、複数の妃との間に80人の子がいて、地方の国郡に封じ、別皇子 (ワケノミコ) と称し、それぞれの国群に派遣された。その皇子 (ミコ)中でも、白鳥伝説 (ヤマトタケルノミコト) 物語はよく知られています。

ー・ー

吉備氏の子孫・ 播磨稲日大郎姫 (はりまのいなびのおおいらつめ) との間に、兄・ 大碓尊 (おおうすのみこと) 、弟・小碓尊 (おうすのみこと) をもうけた‥と、ある。その弟・小碓尊は後ほど、「ヤマトタケルノミコト」と呼ばれ『白鳥伝説』として登場します。

白鳥伝説について、
『古事記』では、倭建命 (ヤマトタケルノミコト) と書かれ、『日本書紀』では日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) と記されています。 またの名を倭男具那命 (やまとをぐな) ともいった‥と、ある。4世紀後半の12代・景行天皇の皇子・5世紀の第14代仲哀天皇の父。 ヤマトタケルは、天皇になれなかった皇子です。

ー・ー

景行27年 秋8月、九州島の熊襲 (クマソ) 一族がまた叛 (そむ)いた。冬10月、日本武尊 (ヤマトタケルノミコト) を遣わせ、再び討たせた‥と、ある。

そのヤマトタケル ( 小碓尊 / おうすのみこと) が熊襲征伐に向かわされた理由には、金太郎の時と同じように、

白鳥伝説について、
陰陽道の中の『壊す』関係→夷を以て夷を征す→  http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7081411.html ←相剋 (そうこく) が用いられました。

ー・ー

ある日、いつまで経っても大碓尊 (おおうすのみこと) が朝廷に出仕しない事を怪しんだ父・景行天皇は、小碓尊 (おうすのみこと) を差し向け、教え諭してくるよう命じた。

ところが5日経っても大碓尊が現れないので、 父・景行天皇は、小碓尊に事情を問い質した。

弟・小碓尊は、厠 (かわや / トイレ) に入った 兄・大碓尊を捕まえ、手足を引き裂き、薦 (こも) に包んで捨てた‥と、白状した。いわば、バラバラ殺人であった。

小碓尊は、優れた知能を持つ反面 ⇔ 心に毒 (どく) を持っていた。 小碓尊の荒々しい気性を恐れた景行天皇は、毒を以て毒を征す「鬼退治」→熊襲征伐を 小碓尊に命じた。




─━─━─扉─━─━─


↓ ↓ ↓




景行27年 冬10月、
九州島の熊襲 (クマソ) 一族の宴の席に 小碓尊は『女装』をして忍び込み、熊襲一族の首長・ 熊襲建 (クマソタケル) / またの名は川上建 (カワカミタケル) に近づき、騙し討ちをしました。

討たれた 熊襲一族の首長・ 熊襲建 (クマソタケル) は、死の直前、こう言いました。

「それは‥見事な騙し討ち、そなた‥日本 (ヤマト) 建国に相応しい、 日本 (ヤマト) を建てる尊 (ミコト) じゃ‥」

それ以来、小碓尊 (おうすのみこと) は、日本建 (ヤマトタケル) と呼ばれるようになりました。


ー(・・?ー・ー


そんなバカな?‥内容満載ありますが、話を続けます→

九州島の 熊襲建 (クマソタケル) を倒した 日本建 (ヤマトタケル) は、西国の出雲建 (イズモタケル) 征伐を命じられる。

西国の地で日本建 (ヤマトタケル) は、偽の刀を腰にさし、出雲建 (イズモタケル) に近づくと、こう言いました。

「その刀とこの刀を交換しよう!」‥と、持ちかけられた 出雲建 (イズモタケル) は、自分の刀を日本建 (ヤマトタケル) に手渡しました。その時‥ 日本建 (ヤマトタケル) は、受け取った刀で 出雲建 (イズモタケル) を斬り殺してしまいました。

ー・ー

日本 (ヤマト) の地に舞い戻った 日本建 (ヤマトタケル) に対して、父・景行天皇は、今度は東国の蝦夷 (えみし) を征伐するよう命じました。

その事に不満を感じた日本建 (ヤマトタケル)は、伊勢国の倭比売命 (ヤマトヒメ) のもとに立ち寄り、こう嘆きました。

「父は私に死ねとおっしゃるのでしょうか。西の夷 (おに) を討ち、帰って間もないというのに、兵を授けるわけでもなく、ふたたび東国の平定に赴けというのです。これは死ね、ということなのです。」

そう言って嘆き悲しむ日本建 (ヤマトタケル) に 倭姫命 (ヤマトヒメノミコト) は草薙剣 (クサナギノツルギ) を授け、励ましました。

ー・ー

その後、東国に赴き、幾多の苦難を乗り越え平定した 日本建 (ヤマトタケル) は、その東方遠征からの帰路、尾張国の宮津姫のもとを訪れ、しばらく姫と共にすごした。

ある日、尾張国にいた 日本建 (ヤマトタケル) のもとに、「暴れる伊吹山の神を退治して下さい」と頼みに来た者がいた。

伊吹山の神を侮ってはいけません。と忠告を受けた 日本建 (ヤマトタケル) であったが、「そんなのは素手で十分だ」といい、 日本建 (ヤマトタケル) は、伊勢国の叔母・倭姫命 (ヤマトヒメ) から授かった『草薙剣』を 宮津姫に預けて出かけた。

この後、日本建 (ヤマトタケル) は伊吹山の神が降らせた激しい氷雨にあって傷つき病んでしまう。この姿を見られまいと思ったのか、宮津姫が待つ尾張国に戻らづ、故郷の大和国に帰ろうとした。*この時、日本建 (ヤマトタケル) が置いていった『草薙剣』は、宮津姫によつて尾張国の熱田社に祀られる事になりました。

日本神話の英雄・日本建 (ヤマトタケル) は、九州島に住む熊襲 (くまそ)、西国に出雲 (いずも)、東国の蝦夷 (えみし)と呼ばれる『おに』を退治、制圧しまくったあげく、伊吹山の神様に呪い殺されるという悲劇の英雄です。

日本建 (ヤマトタケル)が死んだのは4世紀後半頃とされ、伊勢国(三重県)の能褒野 (のぼの)となっており、能褒野王塚古墳という陵墓があるといいます。

白鳥伝説について、
伊吹山の神に敗れた日本建 (ヤマトタケル)は、都を目指してふらふらになりながら、能褒野にたどり着くが、ここで息絶えてしまいます。30歳の若さでした。その霊魂 (たましい) は『白鳥』となって西の空へ飛んでいくのです。そのため、日本建 (ヤマトタケル)の陵墓は、このほか、河内国と大和国にもあり、お墓が「3つ」あるという。

父・景行天皇は、その死を大いに惜しみ、 日本建 (ヤマトタケル) の功名を伝えるため、各地に建部 (タケルベ) を定めた。

景行53年、日本建 (ヤマトタケル)のあとを偲んで、伊勢より東海に向い、さらに東国に行幸した。その時に唄を歌いました。その後、58年に近江国を行幸し、60年の冬10月、亡くなりました。時に106歳であったといいます。


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これまで、神話の中に登場する「伊吹山の神」の『伊吹山』というのは、架空の山だと思っていました。ところが→ http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7081476.html ←ここ最近に実在する山だと知り驚きました。

白鳥伝説について、
そして、近くに古代豪族・息長 (おきなが) 氏の拠点があった事もまた驚きました。

ー・ー

12代・景行天皇の没後に、日本建 (ヤマトタケル)の異母弟が 13代・成務天皇として即位した。その後、 日本建 (ヤマトタケル) の子が14代・仲哀天皇として即位→その子が15代・応神天皇→16代・仁徳天皇→続きます→

日本建 (ヤマトタケル) の子である14代・仲哀天皇は、文献など‥見当たらづ、実績が解らないとされていますが、 14代・仲哀天皇の妃が神功皇后で二人の子が 15代・応神天皇でありました。*夫である 14代・仲哀天皇の存在は知られていませんが、妃である神功皇后、子である応神天皇の存在は非常によく知られています。

白鳥伝説について、
確か?‥神功皇后の別名は、息長帯比売命 (オキナガタラシヒメノミコト) でありました。

男性の系図と女性の系図?‥子だくさん‥と、いう考えをして見ると?‥色いろ何かが‥思う事がありました。*あくまでも、そのまま受け入れてはならない神話の中、お話でありましすが、


ー・ー


やまとは

国のまほろば

たたなづく

あをがき 山隠れる

やまとしうるはし


ー・ー 日本建 (ヤマトタケル) ←命名・ 熊襲建 (クマソタケル) ?‥

「それは‥見事な騙し討ち、そなた‥日本 (ヤマト) 建国に相応しい、 日本 (ヤマト) を建てる尊 (ミコト) じゃ‥」

それ以来、小碓尊 (おうすのみこと) は、日本建 (ヤマトタケル) と呼ばれるようになりました。

















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Posted by 阿佐工房 at 2014年10月09日   00:03
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