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謎の玉城 (たまぐすく)

保元の乱で、

平清盛に敗れ、

伊豆大島に流刑にされた鎮西八郎・源為朝(ためとも)は、

実は、伊予の河野水軍に助けられ、「運」を「天」に任せて南の島に辿り着いた。そこが沖縄県今帰仁(なきじん)村にある『運天港』で、その遺児が「琉球の中山国・舜天王」となった‥

だから、日本島→九州島→沖縄島ともに「源氏」である‥という説がありました。
http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11657006276.html


ー・ー


1237年 源為朝の遺児・舜天王が亡くなる。

舜天王の子・舜馬順熙が53歳の高齢にして王位につくも、わずか10年という短期間で終わる。そして、舜馬順熙の子・義本王が誕生しました。

しかしその時代は、未曾有 (みぞう) の大飢饉があり、疫病が大流行して『人民半ば失ふ』というありさまでありました。


ー・ー


祭政一致である琉球の王統には、
天孫王統 (神話時代) → 舜天王統 (3代) → 英祖王統 (5代) → 察度王統 (2代) → 第一尚氏 (7代) → 第二尚氏 (19代) 続きました。


ー・ー


舜天王統の3代目・義本王は、臣下 (しんか) の前で問いました。

『これは、予 (わたし) に徳がなく、天が見放したのである。この上は、王位を『有徳ある者』に譲り、予は退こうぞ。皆 (みな) の者、『有徳ある者』の名前を挙げよ』‥と、臣下に告げました。

臣下らは皆、天孫王統の末裔・恵祖 (えそ) の世の主の嫡子・英祖 (えいそ) こそ『有徳ある者』と答えました。

恵祖 (えそ) の子・英祖 (えいそ) は、伊祖 (いそ) の転訛とされ、本来は『エ』と『イ』の間の発音→『ヱ』=『ぃえ』だと伝わる。

舜天王統は、沖縄県浦添市にある浦添城を拠点としていましたが同じく、浦添市にある伊祖城を拠点とする英祖王統に政権を譲りました。

義本王の在位は11年、ここに舜天王統は3代で終焉⇔英祖王統が開かれる事になりました。


ー・ー


義本王は、英祖に王位を譲る前に、沖縄島の南にある玉城 (たまぐすく) という地で焼身自殺を決意しました。

ところが、玉城 (たまぐすく) に到着するも、玉城の地は大雨が降っていた。そのため、玉城で焼身自殺を図る事ができませんでした。

義本王は今度は、ご先祖様である鎮西八郎・源為朝(ためとも) が降り立った地・沖縄島の最北端で隠居していた‥?‥という説がある。

沖縄島の最北端・沖縄県国頭村辺戸には、琉球7御嶽 (うたき) の1つ・安須森 (あすむい) の御嶽 (うたき) がある。沖縄語では阿蘇 (あそ) は『あす』と発音する。そして、鎮西八郎・源為朝(ためとも)は、九州島の阿蘇を拠点としていたので安須森 (あすむい) の語源は阿蘇森 (あすむい) だという説があります。

謎の玉城 (たまぐすく)
そしてその安須森の御嶽のすぐ近くに義本王のお墓があります。

義本王のお墓は、少なくとも3つあるので違うという説もありますが、琉球の歴史本・中山世鑑には、そう記されているという。本当は譲ったのではなく⇔亡ぼされた‥?‥とも云われています。


ー・ー


中国では前王統が悪政であれば交代しても良いという「易姓革命」⇔日本では「万世一系」になっています。琉球の歴史本では、亡ぼしたけど⇔繋がる→「易姓革命」の「万世一系」になっています。

義本王の時代は、日本は鎌倉時代の元寇が襲来した時期ため、何かの東アジア情勢の影響を受けていたと思われます。

その後、舜天王統 (3代続いた) ~英祖王統 (5代続いた) に代替しました。

英祖王統の初代・英祖→2代・大成→3代・英慈→4代・玉城→5代・西威と続いた‥

英祖王統の4代目・玉城王は、沖縄島の南にある玉城 (たまぐすく) を拠点としていた王であったので地名から玉城王となりました。

通常、長男か次男が王様になるのだが、英祖王統の4代目・玉城 (たまぐすく) 王は、4男だけど王様になっていたので、何か背後関係が玉城 (たまぐすく) の地にあったと見られる。

そしてその玉城王が酒色に溺れたので、

謎の玉城 (たまぐすく)
琉球国は、北山国・中山国・南山国という3山国に分別したと琉球の歴史本・中山世鑑には記されています。

その後、英祖王統 (5代続いた) ~察度王統 (2代続いた) に変換しました。

察度 (さっと) 王の時代は、中国島の支配が『元』~『明』に移った時期ため、何かの東アジア情勢の影響を受けていたと思われます。

さらに、察度王統 (2代続いた) ~第一尚氏 (7代続いた) に移る時またさらに、第一尚氏 (7代続いた) ~第二尚氏 (19代続いた) に移る時もやはり、玉城 (たまぐすく) が背後に絡んでいました。

玉城 (たまぐすく) は、古くから特殊な地でありました。

正確にいうと、舜天王統→英祖王統→察度王統までは『中山国』といい同じく、中山国から出た第一尚氏の時代に北山国・中山国・南山国を統一して『琉球国』が誕生しました。

北山国の拠点が今帰仁城で南山国の中に玉城 (たまぐすく) があり、その後も、この2地域は今帰仁上り (なきじんぬぶい) と→

謎の玉城 (たまぐすく)
東御廻り (あがりまーい) という祭祀に関する拠点になっていました。

前の『政治』は中山国 ⇔ 後ろ『祭祀』は北山国と南山国がコントロールしていた‥?‥ように思います。


ー(・・?ー・ー


沖縄県の玉城 (たまぐすく) は、三重県の玉城町と姉妹都市になっています。

三重県の古名は、伊勢国でありました。

白鳥伝説の出発地は、http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11764023941.html百舌鳥 (もず) だと思えば、伊勢国の能褒野 (のぼの) だといいます。あくまでも百舌鳥は、『モノマネ』が得意な鳥でありました。当時の白鳥は、白鷺や鶴など‥白い鳥全般を指していました。

日本神話の英雄・日本武尊 (ヤマトタケル) は、九州島に住む熊襲 (くまそ) 、西国に出雲 (いずも) 、東国に蝦夷 (えみし) と呼ばれる『おに』を退治、制圧しまくったあげく、伊吹山の神様に呪い殺されるという悲劇の英雄です。

日本武尊 (ヤマトタケル) が死んだのは4世紀後半頃とされており、伊勢国(三重県)の能褒野 (のぼの) となっており、能褒野王塚古墳という陵墓があります。

謎の玉城 (たまぐすく)
伊吹山の神に敗れた日本武尊 (ヤマトタケル) は、都を目指してふらふらになりながら、能褒野にたどり着くが、ここで息絶えてしまいます。その魂は『白鳥』となって西の空へ飛んでいくのです。そのため、日本武尊 (ヤマトタケル) の陵墓は、このほか、河内国と大和国にもあるという。

白鳥伝説のモデルとなっている『ヤマトタケル』は、景行天皇の皇子。日本書紀では第2皇子で日本武尊 (ヤマトタケルミコト) ⇔古事記では第3皇子で倭建命 (ヤマトタケルミコト) と記されます。

4世紀後半の12代・景行天皇の皇子・5世紀の第14代仲哀天皇の父。

ヤマトタケルの白鳥伝説は、西に東に『おに』退治のお話で桃太郎伝説と似ています。そして、鬼退治をしたヤマトタケルも桃太郎も『おに』になっています。鬼退治をする人も『おに』になっている。土着をしています。

気のせいかも知れないが、沖縄島の最北端・国頭村には、白鳥伝説と桃太郎伝説、浦島太郎のような地名が登場します。

そこにも何か‥?‥玉城 (たまぐすく) の謎があるような気がしてきました。

そこには、鬼神の連続性が見られます。





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Posted by 阿佐工房 at 2014年02月15日   00:22
Comments( 3 ) 昔の出来事
この記事へのコメント
楽しくて素晴らしい探究心ですね。西威王には興味があります!もちろん日本の文化や歴史も!話しは変わりますが、鹿島神宮、くらま神社で秋の紅葉も楽しんでみたいものです。
Posted by チョコチップバニラチョコチップバニラ at 2016年11月12日 14:08
>チョコチップバニラさん

英祖王統は、4代・玉城→5代・西威と続き、察度王統に譲り?王統交替しました。西威王は少年で王になり母親が独裁政治を‥ ためと云われています。

歴史を学んだ後、その地を訪れるのも楽しいですね。
Posted by 阿佐工房阿佐工房 at 2016年11月12日 17:55
誠にそうですね。打てば響くコメントありがとうございます。
Posted by チョコチップバニラチョコチップバニラ at 2016年11月19日 21:25
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