西の京 と 南の京
琉球国 / 第一尚氏王統の5代・尚金福 王が亡くなる。
ような お話にも見えます。
陰謀に「いんぼう」を重ねて王になった尚泰久 王は、後ろめたさ、怨霊信仰から仏教に帰依したとも云われています。
尚泰久 王は、歴代の琉球国王の中で最も仏教に帰依した王であると同時に、多くの寺院建立、銅鐘製造など‥ しました。
記録に残るだけでも三十口ほど、梵鐘が短期間で大量に鋳造され、わずか一時期、一地域でこれほどたくさんの梵鐘が鋳造されたのは、中国や日本の歴史に照合しても希有な時代でありました。
その梵鐘 (ぼんしょう) の中には、通称・万国津梁の鐘 (かね) と呼ばれ、首里城の正殿に掛けられた鐘も含まれていました。
その 「万国津梁の鐘」には『碑文』が書かれており、碑文(漢文)の鐘銘を書いたのは、 京都五山僧の 渓隠安潜(けいいんあんせん)という禅僧、鐘を造ったのは藤原国善 (ふじわらのくによし) という鋳物師でありました。
万国津梁の鐘 の文容には『外交的なメーセージ』が記されていたようです。
今は違うところに安置していますが、
政 (まつりごと) → 「政治と祭祀」 を行う首里城の正殿に万国津梁の鐘が掛けられていました。
今でも?‥
沖縄県の応接室 (来賓場) には、鐘の碑文があるといいます。
ー(・・? ー?→
当時の相国寺は琉球にあった禅寺の名前ですが、日本 (京都) にも同名の禅寺があり、関連していた可能性は高いようです。
日本の相国寺 (禅寺) には、通称・金閣寺や銀閣寺といった有名寺院が付随しているのですが、南禅寺 (禅寺) や円覚寺 (禅寺) などのような史料が少ない影響からか? その役割 (実態) はあまり世に知られていないといいます。
ー・→
相国寺と通称・金閣寺 (鹿苑寺) は、室町幕府の3代将軍・足利義満が同時期に建てた禅寺。その相国寺も金閣寺 (鹿苑寺) も 足利義満 に由来する寺名といいます。
(・・? どうやら
相国寺は足利義満の職名・相国 (ショウコク) 金閣寺 (鹿苑寺) は足利義満の法名・鹿苑 (ろくおん) を意味しているようです。
*職名と法名?
… 相国 (ショウコク) とは →
中国風な呼び名で、国政を相 (たす) ける人の意味で宰相や大臣のこと。
*相 ≒ 臣
〈例〉
首相 = 総理大臣 / 宰相 (さいしょう)
相国は 太政大臣・左大臣・右大臣 の唐名。時代によつて、相邦 / 相国 / 丞相 (じょうしょう) など、記載。
https://kotobank.jp/word/相国-531497
ー?→
足利義満も「太政大臣」になっていた事から、太政大臣の唐名・相国が寺の名前になっているように思われます。
*相国 ≒ 太政大臣
ー・→
本尊は釈迦如来、開基は足利義満、開山は夢窓疎石。
足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。
6代・尚泰久 王は、歴代の琉球国王の中で最も仏教に帰依した王であると同時に、多くの寺院建立、銅鐘製造など‥ しました。
通称・金閣寺も銀閣寺も『相国寺』の境外塔頭寺院との事です。
*相国寺派
また、今の僧侶 と 昔の僧侶 は異なり、室町時代の僧侶は政治家。あるいは政治顧問の役割をしていたようです。
*寺院 ≒ 政治施設
碑文の末尾には「明の天順二年 (1458年) 6月19日、鉄の大工 / 鋳物師・藤原国善 (ふじわらのくによし) が鐘を作り、相国寺に住む禅僧・渓隠安潜 (けいいんあんせん) が文字を記した」 と、あるようです。
━↓─━─扉─━─↓━
四畳半の部屋
━↓─━─扉─━─↓━
(・・? 後ほど
室町幕府の8代将軍・足利義政の影響からか?
2つの扉
━↓─━─扉─━─↓━
お手洗い。
(・・;) お手洗い には ; 手を洗う物がなかった。
―…―…→→
(・・;) 後ほど ;
水を出すと? 水が飛び出る事に気がつきました。
お手洗い の幅を拡げてみました。
―…―…→→
―…―…→→
内側の扉を開けても、
━↓─━─扉─━─↓━
お手洗い
(・・;) まだまだ ; 工事が必要です。
光の国を求めて
春秋時代の呉越戦争で「呉」が亡びた。
と、同時期に大規模な水田跡が九州で見つかる。長江文明の象徴である水耕稲作文化の揚子江一帯の呉族が Bc 5世紀頃、「呉」滅亡とともに大挙して日本列島に漂着していたという説がある。
ー?→
むかし、中国大陸には「華北 (黄河) 」と『江南 (長江) 』の文明があり、
南方の『江南 (長江) 』地方には、呉族 (海部族) と 越族 (海部族) が住んでいました。
「呉越同舟」ことわざ は、不仲の人でも同じ舟に乗れば助け合う。と意味があるようです。
呉族 と 越族は、ほぼ同じ民族だけど不仲であった。そして、呉族 と 越族は「漁労と稲作」を生業 (なりわい) とする海部族で、水田作りと 鵜飼い漁を得意としていました。
ー・→
Bc 5世紀ころ、
呉の国 と 越の国は戦争をして「呉」が亡びた。
と同時期に、中国の山東半島や朝鮮半島の南、九州島の北部、日本島の西部には 呉族 (海部族) が多く移り住んだとも云われています。
(・・? ?
山東半島 / https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%8D%8A%E5%B3%B6
━↓─━─扉─━─↓━
紀元前は Bc 4世紀ころ、
かつて、呉の国 を亡ぼした 越の国は、楚の国に滅ぼされます。
楚の国に滅ぼされた越族 (海部族) は、中国の山東半島や朝鮮半島の南、九州島の北部、日本島の西部に多く移り住んだとも云われています。
━↓─━─扉─━─↓━
紀元前は Bc 3世紀ころ、
かつて、越の国 を滅ぼした 楚の国は、秦の国 に亡ぼされます。
そのとき「楚の国」の人々は、山東半島にあった『斉の国』に多く亡命したと云われています。
*斉の国には、呉越と越族、楚の国の人々が集合。
その後 →
秦の国は→ 斉の国 も亡ぼし → 中国を統一して行きます →
そのころ、
山東半島にあった斉の都・琅邪 (ろうや) から、徐福一行が朝鮮半島か? 日本列島のどこかに亡命した? という「徐福伝説」があります。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F
当時の琅邪 (斉の国) には、楚人・越人・呉人といった『江南 (長江) 』出身の住民が多く、彼等は秦帝国の圧政から逃れたいと思っていた。とも云われています。
ー?→
また彼らは、光の国 ≒ 太陽信仰を持っており、太陽は東方の海から生まれて来る。そして、鵜 (う ≒ 鳥 ) が『常世の国 (理想郷) 』に連れて行く? という信仰をしていたようです。
―…―…→→
日本島の西端にある、
豊浦町 / 土井が浜遺跡から「鵜 (う) とともに眠る女性」が出土していました。
ー?→
むかし、
日本島の西端と東端 (常世の国?) に『豊浦町』がありました。
どうやら?
『豊浦町』の「豊 (トヨ) 」は、海の都・竜宮城に住む『豊玉彦?』と関係しており、古代の海部族は、太陽が海から生まれて来る? そして、鵜 (う ≒ 鳥 ) が『常世の国 (光の国) 』に連れて行く? と考え方をしていたようです。
そうした海部族は、祭祀的な日置部の仕事に携わる事が多く、日置 → 火起 → 土器職人 → 鉄器職人 に通じ → 後ほど軍事的な久米部と佐伯部にも通じていたようです。
そのため、古代の海部族には「もと呉族と越族」が多く、日置族には『もと海部族』が多くいたかもしれません。
(・・? ?
今では『鵜飼い』儀式といえば、美濃国の長良川がよく知られていますが、長良川の鵜は常陸 (ひたち) 国の「日立市」で生まれ育てられているといいます。
常陸 (ひたち) 国の「日立市」は『鵜 (う) の里』になっており、その「日立市」の古名は『豊浦町』でした。
ー・→
諸説ありますが、
「常世 (とこよ) の国」→『常陸 (ひたち) 国』という語源と説もあります。
また、
日立市 (むかし豊浦町) のとなりに「常陸太田市」がありますが、その「常陸太田市」の古名は『久米村』でした。
「日置部 (祭祀的な) から派生した久米部 (防人) の‥ 」と お話が見えてくると思います。
*豊浦町と久米村は「日置の里」≒『海部の里』
━↓─━─扉─━─↓━
紀元後の Ad 3世紀ころ、
中国大陸では、漢帝国 (後漢) が滅び「魏・呉・蜀」の三国時代に突入します。
ー・→
魏志倭人伝によると、
そのころ、朝鮮半島の南側に『韓の国』、その南に『倭の国』があったとされ、
朝鮮半島の南側に「韓族」という民族がいたのではなく⇔『韓』に住む人も「倭族」と呼んでいました。また、倭族という民族がいたのでもなく、『倭』とは蔑称で、亡命した人々の事を『倭人』と呼んでいたようです。
その頃の『韓の国』や『倭の国』は1つの国 (クニ) ではなく ⇔ 多民族の人々が集まる連なる邦 (クニ) で、
*その前に、朝鮮半島の南部や九州島の北部、日本島の西部には「呉族と越族」が多く移り住んでいたようです。
ー?→
魏志倭人伝によると、
「倭の国」は1つの国ではなく、倭の国 の中に末蘆国・奴国・伊都国・不弥国・投馬国などの30もの国が存在しており、その中心的なのが『邪馬台国』だったと載っています。
*邪馬台国の女王は卑弥呼。
―…―…→→
「倭の国」の中にある 邪馬台国には『馬』と文字がついており、
朝鮮半島の「韓の国」の中にあった 狗邪韓国 には『狗 (いぬ / 犬) 』と文字がついている事が気になりました。
*馬と犬?
さらに、
「倭の国」の中にある 邪馬台国 の南には、狗奴国 (くなこく) というライバル国があったという。
*狗奴国にも『狗 (いぬ / 犬) 』と文字
ー・→
後ほど、邪馬台国は南方にあったライバル国の狗奴国に亡ぼされます。
魏書には、
「倭国、おおいに乱れる」「倭国乱れ、相攻伐すること暦年」などと記され、「男王となす」「その国の人、入れ墨 (イレズミ) あり‥ 」などと記載されていたようです。
当時の入れ墨 (イレズミ) は、
海部族の特徴であったといいます。
―…―…→→
(・・? いったいぜんたい?
どうなっているか? 展開になってしまいましたが、また考えて見たいです。
━↓─━─扉─━─↓━
人と族、新たな住まい。
人 と 族 は ⇔ どちらが広いのか?
日本人や日系人、和人。などの言葉は聞いた事ありますが、
『日本 (にほん) 族』と言葉は聞いた事ありません。
1つの表現法として『日本 (ヤマト) 族』や原日本人? などと使う人は見た事がありますが、それはあくまでも表現法であつて正式な「族 / 人」ではないように思います。
ー・→
例えば、中国大陸の中にはチベット族や朝鮮族と呼ばれる人々 (中国人) がいますが、チベット族にしても。朝鮮族にしても、高麗 (こま / 扶余) 系や百済 (くだら / 扶余) 系、新羅系などの多種多様な民族が含まれています。
「日本人」と言葉の中にも、中国大陸や朝鮮半島 由来の高麗系扶余 (プヨ) 族、百済系扶余族、百済系の呉族、百済系の漢人、新羅系の秦人、北方のアイヌ族、南方の海部族 (呉族や越族) などが大いに含まれているので、人 にしても ⇔ 族 にしても単一ではない事が解ります。
*人の中に族、族の中に人。
やはり、
人 と言葉を使用するべきか? 族 と言葉を使用するべきか? 迷います。
人 にしても 族 にしても「単一」ではなく『総称』である事は確かなのですが、解りやすく説明するために区別する事もあるのかと思いました。
ー * →
*そして今では、その言葉を使用するべきではない。との意見もありますが、むかし自分が小 中学生の頃、確かに「ゲルマン民族の大移動」と言葉が教科書にも載っていました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA
ー ; →
(・・;) 実はいうと ;
小 中学生、高生の頃、まったく学習をした記憶が無いのですが、なぜか? 「ゲルマン民族の大移動」と言葉はとても印象に残っています。
*ゲルマン族は強そう
ところが近年、ゲルマン族と単一的に呼称すべきではないとの意見もあります。
*ゲルマン族 → ゲルマン人
その「ゲルマン人」という総称の中にも、フランク人やノルマン人、アングロ人、サクソン人、ジュート人などの多種多様な民族が含まれているようです。
*人の中に人
ゲルマン人から派生したフランク人は、
後ほど、ドイツ人やフランス人、イタリア人になったようです。http://www12.plala.or.jp/rekisi/hurannku-metubou.html
同じく、ゲルマン人から派生したノルマン人はロシア方面に、ゲルマン人から派生したアングロ人とサクソン人はイギリス方面へ移動したといいます。
また、ドイツの教科書では「ゲルマン人の大移動」と教え ⇔ フランスの教科書では『ゲルマン人の大侵入』と教えているようです。http://www.y-history.net/appendix/wh0601-009.html
*人の大移動 ⇔ 大侵入
ー(・・? ー?→
ある お話によると、
現在のフランスの大半を占める地域には、ケルト人 から派生した ガリア人 が多く住んでいたといいます。
またこの ガリア人 と呼称も外部 (西ローマ帝国) から見た視点で、ガリア人自身はゴート人と自称していたようです。
*ケルト人 → ガリア人 ≒ ゴート人
もともと、フランス方面にはケルト人 から派生した ガリア人 が多く住んでいましたが、4世紀の「ゲルマン人の大侵入」により、ガリア人 も ケルト人 も東西南北に分散したという。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%BA
━↓─━─扉─━─↓━
Ad 392年
古代ローマ帝国のテオドシウス帝はキリスト教以外のすべての宗教の信仰を禁止し、キリスト教をローマ帝国の唯一の宗教 = 国教としました。
ー・→
Ad 395年
テオドシウス帝は死の間際に「長男のアルカディウス (18歳) を東ローマ皇帝 ⇔ 次男のホノリウス (16歳) は西ローマ皇帝に‥ 」と、分割統治するように遺言を残しました。
しだいに、
ローマ帝国は東西に分別して行きます。その過程で、西ローマではカトリック (西方教会) ⇔ 東ローマでは正教会 (東方教会)が保護されます。
(・・? いまでも?
比較的、西はカトリック (西方教会) ⇔ 東は正教会 (東方教会) が多い。名残があるようです。
━↓─━─扉─━─↓━
東西ローマ帝国の北方には、
ゲルマン人と呼ばれる狩猟的な「農耕民 / 遊牧民」が住んでいました。
その ゲルマン人から派生した民族には、東ゴート族や西ゴート族、ヴァンダル族、ブルグンド族、ランゴバルド族などがいたようです。
*複数のゲルマン系 諸民族いた
ー・→
4世紀 (375年) ~
アジア系の遊牧民・フン族が ← 征西 ← (西進) ← を開始した。
← それに伴い ←
← 玉突き現象が起き ← 複数のゲルマン系 諸民族は ↓ 大移動 ↓ (南進) ↓ を開始した。
↓ ↓ ↓ ↓
375年にゲルマン系の東ゴート族がフン族により征服されます。同じくゲルマン系の西ゴート族も圧迫され375年に南下を開始。ローマ帝国領内に移動をします。
この西ゴート族の移動に触発されるようにして他のゲルマン民族たちも移動を開始した。
http://www12.plala.or.jp/rekisi/geruman.html
ー・→
こうして、
古代ローマ帝国の領土内に侵入して来たゲルマン系 諸民族は各地に、フランク王国、ヴァンダル王国、東ゴート王国、西ゴート王国、ランゴバルド王国などを建国した。そして、それらのゲルマン系諸国はすぐに滅亡したけど、唯一残ったのがフランク王国 (ゲルマン系の国) であったという。
http://www12.plala.or.jp/rekisi/hurannku-metubou.html
―…―…→→
そのとき、ガリア人 は西ローマ帝国に属し、「パンとワイン」を主食とする農耕的な定住生活をしていた。
⇔ 一方、
ゲルマン人から派生したフランク人は『肉と蜂蜜酒』を主食とする狩猟的な遊牧民であったようです。http://www.y-history.net/appendix/wh0103-089.html
後ほど、もと遊牧民であったフランク人 (ゲルマン人) が定住民になると、これまでの「蜂蜜酒」から『ビール』を主食とするようになったと云われています。
(・・? その名残か?
フランスはワインの里、
⇔
ドイツはビールの里。
―…―…→→
ー(・・? そこで2つ?
気になる事がありました。
1つは?
「ゲルマン人の大移動」が キッカケ となり、西ローマ帝国 (カトリック教国) は滅亡していました。
もう2つは?
ゲルマン人から派生したフランク人 (もとゲルマン人) が建国したフランク王国は「カトリック教国」であった事です。
ー?→
古代ローマ帝国の領土内に侵入して来たゲルマン系 諸民族は各地に複数のゲルマン王国を建国したけど、すぐに滅亡した。しかし、その中で唯一残ったフランク王国。
フランク人 (もとゲルマン人) は西ローマ帝国 (カトリック教国) を滅亡させる キッカケ を作ったけど「カトリック教」を信仰した?
*ゲルマン人のローマ化
どうやら?!
その事 と関係しているようです。
サトウキビの穂で染めた名古屋帯 (未仕立て)
http://asa-koubou.com
―…―…→→
未仕立て / 名古屋帯
手織り / 技法は首里織
巾36cm
長さ5m15cm
ー・→
素材 : 経糸 (たていと) = 絹糸 (正絹100%)、緯糸 (よこいと) = 絹糸 (紬糸100%) を使用。
*正絹も紬糸も絹糸100%
経糸 (たていと) = 絹糸 (100%) は「21中10」を使用。
*蚕の出す糸 → 繭糸 (まゆいと) = 生糸 (きいと) は → 1d (デニール) の太さで、1d は 9000mで1gと云われています。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e5581085.html
1d (デニール) の生糸を21倍の太さに撚 (よ) りをかけた糸が21d (デニール) といいます。
21dの繭糸 = 生糸を10本撚り合わせた絹糸は「21中10」と呼んでいるようです。
*生糸の太さは一定してないので、
「平均値 ≒ 中」と表示。
ー・→
染料 : 草木染 (サトウキビの穂を主に、その他)
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8559980.html
経糸 (たていと) の染料はサトウキビの穂を主に、櫨の木、赤木、ザクロの実やヤエヤマアオキ (通称・ノニの実) などの重ね染め。
緯糸 (よこいと) は福木 (黄色系) や櫨の木 (灰色系) ヤエヤマアオキや赤木 (茶系統) など、複数の紬糸 (絹糸100%) を織り混ぜて花織紋様にしています。
*青系色は化学染料
ー・→
↑14ユミの筬 (オサ) と糸綜絖を使用。
14 (ユミ / ヨミ) の筬と糸綜絖を使用すると、
1cm の中に14組の経糸 (たていと) が入ります。
ー・→
お太鼓部分、胴体部分、耳の部分も花織の総柄紋様になっております。
お値段は90.000円になります。
紬糸の名古屋帯 (未仕立て)
http://asa-koubou.com
―…―…→→
未仕立て / 名古屋帯
手織り / 技法は首里織
巾36cm
長さ5m15cm
ー・→
素材 : 経糸 (たていと) = 絹糸 (正絹100%)、緯糸 (よこいと) = 絹糸 (紬糸100%) を使用。
*正絹も紬糸も絹糸100%
経糸 (たていと) = 絹糸 (100%) は「21中10」を使用。
*蚕の出す糸 → 繭糸 (まゆいと) = 生糸 (きいと) は → 1d (デニール) の太さで、1d は 9000mで1gと云われています。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e5581085.html
1d (デニール) の生糸を21倍の太さに撚 (よ) りをかけた糸が21d (デニール) といいます。
21dの繭糸 = 生糸を10本撚り合わせた絹糸は「21中10」と呼んでいるようです。
*生糸の太さは一定してないので、
「平均値 ≒ 中」と表示。
ー・→
染料 : 草木染 (サトウキビの穂を主に、その他)
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8559980.html
経糸 (たていと) の染料はサトウキビの穂を主に、櫨の木、赤木、ザクロの実、ヤエヤマアオキ (通称・ノニの実) などの重ね染め。
緯糸 (よこいと) は福木 (黄色系) や櫨の木 (灰色系) ヤエヤマアオキや赤木 (茶系統) など、複数の紬糸 (絹糸100%) を織り混ぜて花織紋様にしています。
*青系色は化学染料
ー・→
↑14ユミの筬 (オサ) と糸綜絖を使用。
14 (ユミ / ヨミ) の筬と糸綜絖を使用すると、
1cm の中に14組の経糸 (たていと) が入ります。
ー・→
お太鼓部分、胴体部分、耳の部分も花織の総柄紋様になっております。
お値段は90.000円になります。
花倉織の着尺 / 緑反物
http://asa-koubou.com
―…―…→→
未仕立て / 着尺
手織り / 技法は首里織の花倉織
巾 約38cm
長さ 約13m
ー・→
素材 絹糸100%
絹糸 (100%) は「21中8」を使用。
*蚕の出す糸 → 繭糸 (まゆいと) = 生糸 (きいと) は → 1d (デニール) の太さで、1d は 9000mで1gと云われています。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e5581085.html
1d (デニール) の生糸を21倍の太さに撚 (よ) りをかけた糸が21d (デニール) といいます。
21dの繭糸 = 生糸を8本撚り合わせた絹糸は「21中8」と呼んでいるようです。
*生糸の太さは一定してないので、
「平均値 ≒ 中」と表示。
ー・→
染料店より購入した天然染料の緑葉エキスパウダーを使用していますが、自然色というよりも、ほぼ化学染料に近い色になっています。
ー・→
花織と絽織を組合せた市松紋様の花倉織 (絡み織) になっています。
↑花倉織 (絡み織) は「透き」が特徴。
ー・→
↑15ユミの筬 (オサ) と糸綜絖を使用。
15 (ユミ / ヨミ) の筬と糸綜絖を使用すると、
1cm の中に15組の経糸 (たていと) が入ります。
ー・→
お値段は380.000円になります。
手花織 (てぃパナうい) の未仕立て帯
http://asa-koubou.com
―…―…→→
未仕立て / 名古屋帯
手織り / 技法は首里織の手花織 (てぃパナうい)
ー?→
手花織 (てぃパナうい) は、糸綜絖と紋 (花) 綜絖と繍取り用の綜絖を使用した技法です。
手花織 (てぃパナうい) ≒ 繍取織
ー?→
巾36.5cm
長さ5m20cm
ー・→
素材 絹糸100%
絹糸 (100%) は「21中10」を使用。
*蚕の出す糸 → 繭糸 (まゆいと) = 生糸 (きいと) は → 1d (デニール) の太さで、1d は 9000mで1gと云われています。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e5581085.html
1d (デニール) の生糸を21倍の太さに撚 (よ) りをかけた糸が21d (デニール) といいます。
21dの繭糸 = 生糸を10本撚り合わせた絹糸は「21中10」と呼んでいるようです。
*生糸の太さは一定してないので、
「平均値 ≒ 中」と表示。
ー・→
染料 ; 草木染 (月桃) と化学染料
染料は、経糸 (たていと) は月桃を使用し、緯糸 (よこいと) は天然染料と化学染料を組合せています。
ー・→
↑14ユミの筬 (オサ) と糸綜絖を使用。
14 (ユミ / ヨミ) の筬と糸綜絖を使用すると、
1cm の中に14組の経糸 (たていと) が入ります。
ー・→
↑お太鼓部分、
↑胴体部分、
―…―…→→
(・・? 亀と鳳凰 (ほうおう)?
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8818939.html
つもりで手花織 (てぃパナうい / 繍取織) をしてみました。
ー・→
(・・;) 調整は難しいかもしれませんが ;
お値段は135.000円になります。
両面使用できる袋帯 (仕立上り)
―…―…→→
仕立上り / 袋帯
手織り / 技法は首里織の花織
巾31.5cm
長さ4m20cm
ー・→
素材 絹糸100%
絹糸 (100%) は「21中10」を使用。
*蚕の出す糸 → 繭糸 (まゆいと) = 生糸 (きいと) は → 1d (デニール) の太さで、1d は 9000mで1gと云われています。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e5581085.html
1d (デニール) の生糸を21倍の太さに撚 (よ) りをかけた糸が21d (デニール) といいます。
21dの繭糸 = 生糸を10本撚り合わせた絹糸は「21中10」と呼んでいるようです。
*生糸の太さは一定してないので、
「平均値 ≒ 中」と表示。
ー・→
染料 草木染 (スオウと茜ほか‥ )
染料はスオウと茜を主に、ホルトの木、ゲッキツなどの複数の草木を何度も重ね染めしております。
↑朱色系はスオウと茜を主に、黄系統はホルトの木、ゲッキツなどの複数の草木を何度も重ね染めしております。
ー・→
↑14ユミの筬 (オサ) を使用。
14 (ユミ / ヨミ) の筬を使用すると、1cm の中に14組の経糸 (たていと) が入ります。
ー・→
朱色系は地糸を利用した花織、黄系統は色糸を使用した花織。
両面使用、リバーシブル。
お値段は180.000円になります。