阿佐工房のブログ

機織 (はたお) りの工房の お店を はじめる
てぃーだブログ › 阿佐工房のブログ › 玉手箱 › 海外と底辺の人々

海外と底辺の人々


━─━─━─━─━─

大王 (オオキミ / 大君) は神にしませば

─━─柿本人麻呂─━─


現人神 (あらひとがみ) → 生きながら神であるという 「官僚政治」 は律令体制から はじまりました。

「神にしませば」 という表現は、神権的な大君 (オオキミ / 天皇) への讃歌である一方 ⇔ 神様であるから政治には 「タッチ」 しないで下さい。という 「官僚国家体制」 を意味し、形式上は天皇を中心とする律令制 → 事実上は官僚を中心とする律令制であった。
*律令制の本質は、君主制 ≒ 農奴制


ー・ー


古墳造営からはじまる、宮門、寺院に平城京などの整備、古代の役民にとってはまことにつらい律令国家の建設は、役民の犠牲の上に成り立つものでありました。


ー・→


723年
長屋王は、人口増による区分田不足ため「三世一身法」を出しました。

この法は、親子3代まで耕した田畑 / 土地を所有する事ができたが、3代め以降は国に土地を返す法であったので、3代めからは土地を放棄する人々がたくさんいました。


ー・→


743年
ヤマト朝廷は新しく開墾した土地を永久に私有地にすることを認めるという『墾田永年私財法』を出した。この法律は、人々の開墾への意欲をかき立て、耕地の拡大につながった。

公民に土地が与えられる代わりに「租・庸・調・雑徭」といった納税と課役により、律令国家体制が整備されました。

主に、租は米類、庸は労役、調は布類、雑徭は雑用的な労役などの税制で、労役の代わりに他の税を納めたり、税を納めきれない者は代わりに労役や兵役、税から逃れるため女子になる男子、年齢詐偽などもいたようです。

そうした律令体制にも大きな不備がたくさん見られました。

律令制は農を主とした 「農本主義」 で、海や山が度外視されていた。また、土地を開墾する税制上、土地を有しない職業、あるいは税の苦しさから自ら土地を捨てて僧侶 (私度僧) になる者もいた。
*僧侶は特別な税制


ー・ー


733年ころ、
聖武天皇は東大寺・大仏建立をはじめる。そのころ、僧侶・行基のもとには役民と呼ばれる人々、税の苦しさから自ら土地を捨てて僧侶 (私度僧) になる者などが集まっていた。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12133076155.html

(・・? つまり?‥
律令制を整備するため、律令制を壊すかもしれない人々を利用して東大寺・大仏建立は行われていました。


ー・→


奈良時代の国家体制 (仏教体制) として 6つ仏教 (学問) → 三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗 の 「南都6宗」 という体制からなり、当初は 「南都6宗」 すべて東大寺に属し、各宗の教理を研究する学問仏教で、当時の寺院は現在の寺院とは異なり、1つ寺院のなかに数種の宗派 僧が学んでおり、東大寺 ≒ 東京大 (国立大) のようなもので、今の法学部、医学部、経済学部など‥ 宗派というより学部の役割をし、医学部でも経済を学び、経済学部でも法律を学ぶなど‥ していたようです。
* 「南都6宗」 はすべて海外由来の仏教 (学問) で、今では 3宗に集約され、東大寺は 「華厳宗」、唐招提寺と西大寺は 「律宗」、興福寺と薬師寺は 「法相宗」 を本山としているという。

今でいうと、
「法相宗」 → 薬師寺は、薬剤師 → 主に医学部? 「律宗」 → 唐招提 (とうしょうだい) 寺は、主に法学部? ようにも見えます。


ー・ー


上記の文に、
「僧侶・行基のもとには役民と呼ばれる人々、税の苦しさから自ら土地を捨てて僧侶 (私度僧) になる者などが集まっていた」 とありましたが、

聖武天皇は、行基の下に集まる仏教徒 (私度僧) も 「南都6宗」 の仏教徒 (大学生) も取り入れていましたが、行基の下に集まる仏教徒 (私度僧) と 「南都6宗」 の仏教徒 (大学生) はタイプが大きく異なりました。

都の内裏 (だいり) には、僧侶 (学生) としての一般教養を持たない僧侶 (私度僧) が集まっていたため、治安も乱れていた。


ー(・・? ー・ー


そこで、
海の向こう側から鑑真 (がんじん) という僧侶が 「戒律」 というものを持ち込みました。

「戒律」 は、仏教の刑法 / 法律 (ルール本) のようなもので、もともと日本にもありましたが、不完全な状態であったので鑑真 (がんじん) により、「戒律」 を授けるための戒壇 (かいだん) を設けることになり、東大寺戒壇院、大宰府観世音寺、下野国薬師寺の3つ 戒壇 (かいだん) が設置され、戒律制度が急速に整備されていきます。

鑑真 (がんじん) は日本『律宗』の租と云われ、『律宗』は 「戒律」 に重きを置く宗派 (学部) で、後ほど唐招提寺と西大寺が『律宗』の本山になったようです。
*東大寺は 「華厳宗」、唐招提寺と西大寺は 「律宗」、興福寺と薬師寺は 「法相宗」 を本山に、

聖武天皇、天皇の后 (きさき / 妃) である光明皇后、娘・称徳天皇 (孝謙天皇) は、東大寺戒壇院、大宰府観世音寺、下野国薬師寺の3つ 戒壇 (かいだん) に力を入れていたと同時に、引き続き 「悲田院と布施屋 (施薬院) 」 にも力を入れていました。
*聖武天皇は東大寺 ⇔ 称徳天皇は西大寺に力を注ぎ、聖武天皇 親子は、仏教徒 (大学生) → 主に『海外勢力と底辺の人々』を利用していた。


ー(・・? ー・ー


そこで少し、
東大寺戒壇院、大宰府観世音寺、下野国薬師寺の3つ 戒壇 (かいだん) 院について気になる事がありました。

それは、あの時の『道鏡事件』の際、道鏡は下野国の薬師寺に島流しされていた事です。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8447023.html ー・→ 病で倒れた孝謙上皇 (後の称徳天皇) を看病するため看病禅師・弓削道鏡 (ゆげのどうきょう) という僧侶が登場します。

弓削道鏡 (ゆげのどうきょう) という僧侶は、初期密教 (祈りの力で病を治す) を持っていました。
*当時の僧侶は祭祀のほか、文学、薬学、医学など‥お医者さん的役割を備えていました。

初期密教を学んだ道鏡は、呪法を用いて孝謙上皇 (後の称徳天皇) の病気を治し、これによって孝謙上皇の厚い信頼を得ることになります。

聖武天皇の独り娘として育てられた孝謙上皇は、ここで初めて♪心トキメキ♪する男性に巡り会ったと云われています。
*聖武天皇と光明皇后の娘・孝謙上皇は、2度目の復権 = 重祚 (ちょうそ) して再び称徳天皇として即位しました。


ー・→


当時はまだ奈良時代で、
一般的には『密教』は平安時代、『禅』は鎌倉時代に流行しますが、奈良時代すでに 弓削道鏡は、法相宗の僧でありながら『密教と禅』を兼ね備える 「看病禅師」 でありました。

平安時代に天台宗の最澄 (さいちょう) と真言宗の空海 (くうかい) が持ち帰った密教は中期密教 →『純密』 に分類され ⇔ 奈良時代 道鏡 の初期密教は『雑密』に分類されています。

さらに、
天台宗の 最澄 が持ち帰った密教 (純密) は 「台密」 ⇔ 真言宗の 空海 が持ち帰った密教 (純密) は 「東密」 と呼ばれています。

平安時代当初、最澄 の密教 (台密) よりも ⇔ 空海 の密教 (東密) の方が密教色が強く、後ほど 最澄 の弟子である 円仁 と 円珍 により天台宗も密教色が強くなって行きます。

最澄 の弟子である 円仁 は下野国の人で、 円珍 は最澄 (天台宗) のライバルであった 空海 (真言宗) の甥っ子でした。


ー(・・? ー・ー


円仁 は、島流しされた 道鏡 → 初期密教 (雑密) に通じ、 円珍 は、最澄 のライバルであった 空海 → 中期密教 (純密) → 「東密」 に通じます。
*比延山は最澄 (天台宗) の ⇔ 高野山は空海 (真言宗) の‥

またさらに、
比延山 (大学) の卒業生・栄西 は臨済宗 (禅宗) の祖となり鎌倉時代に臨済宗 (禅宗) は流行します。

臨済宗 (禅宗) の祖・栄西 (ようさい) には真言宗の 重源 (ちょうげん) という友がおり、二人は兄弟か?‥ と、云われるほど仲良しであったといいます。

またまたさらに、
鎌倉時代、鎌倉幕府は 臨済宗 (禅宗) と 真言律宗 という2つ宗派に重きを置いていました。

真言律宗 は、奈良仏教 (律宗) と 平安仏教 (真言宗) を合わせたような宗派で、奈良時代の『律宗』と鎌倉時代の『真言律宗』は微妙に違うようです。


ー・ー


いま、
『真言律宗』の本店は西大寺 > 支店は 極楽寺 になっているようです。

西大寺 と言えば?‥
奈良時代 / 聖武天皇の娘・称徳天皇 (孝謙天皇) が力を注いだ寺院。

鎌倉時代 (・・? →
鎌倉幕府は 臨済宗 (禅宗) と 真言律宗 ≒ 極楽寺 に重きを置いていたという事は?‥ 『禅宗と密教』に重きを置いていたようにも見えて来ます。


ー・→


奈良時代すでに 弓削道鏡は、法相宗の僧でありながら『密教と禅』を兼ね備える 「看病禅師」 でありました。聖武天皇の娘・称徳天皇 (孝謙天皇) が力を注いだ寺院が西大寺 で、その時代に起きた国家の一大スキャンダル事件、日本書紀には道鏡は『巨根伝説』を持つ怪僧と記されています。

聖武天皇の娘・称徳天皇 (孝謙天皇) は道鏡 に♪心トキメキ♪していた。

やはりダメだったか‥
ー・→ 弓削道鏡を天皇にしたかった称徳天皇にとつて、残念な報告でありました。あまりにもショックだったせいか、称徳天皇は激怒し、なんと!『お告げ』を聞きに派遣した『和気清麻呂』を別部汚麻呂 (わけべのきたなまろ) と改名し、さらに姉の『和気広虫』を別部狭虫 (わけべのせまむし) と、改名していました。769年『宇佐八幡宮神託事件』http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8447023.html

称徳天皇 (孝謙天皇) は超・破壊力満載な女帝で、 部下に不思議な 「アダ名」 をつけるなど‥ やりすぎな1面を持ちつつ 「王を奴と呼ぼうが奴を王と呼ぼうがかまわない」 と、驚きべく発言をするなど‥ とても力強い女帝でした。

その後、称徳天皇が亡くなると、道鏡の地位も下がりました。そして、弓削道鏡は下野国の薬師寺の別当として左遷され、2年後に死去しました。

そして平城京 / 奈良時代は終わり → 時代は平安京へと移って行きます→

奈良仏教 → 平安仏教 → 鎌倉仏教 →

→ 再び、何かが?‥ →














  • LINEで送る

同じカテゴリー(玉手箱)の記事

Posted by 阿佐工房 at 2016年02月28日   00:46
Comments( 0 ) 玉手箱
[公開]
[非公開]
※管理人のみ管理画面から確認することができます。
[公開]
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
[公開]
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。