1953 (昭和28) 年
那覇市は、わずか4.4平方キロメートルの市域に6万2千人という超人口過密地域に達しました。
翌年の1954年9月1日、となりの首里市と小禄村が那覇市に編入され合併。さらに、1957 (昭和32) 年11月28日、となりの真和志村とも合併し、今の那覇市が誕生しました。
古くから浮島 (那覇の港) =「海の港」が沖縄島の玄関口でありましたが、時代とともに『空の港』が沖縄島の玄関口になって行きます。
新しく那覇市になった旧・小禄 (おろく) 村に那覇空港が設置されました。
旧・小禄村には、鏡水 (かがみず)、金城 (かなぐすく)、鏡原、「カニマンうたき」など‥『金属 (鉄類) 』に関する名残り部落、跡地があります。
今は「小禄 (おろく) 」という漢字も「当て字」で、方言名 (本来名) は『小禄 (うるく) 』といい、「ウル」は『砂』を意味していました。
古い日本語、アイヌ語、または地方により「砂 / 灰 / 塩」の事を米 (ヨナ / 与那)、ヨネ、依り、伊那 (イナ / 伊奈)、シナ、白、依り、寄る、うり、ウルなど‥あったと説があります。
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小禄小学校のとなりに「カニマンうたき」という小さな山があります。
小禄小学校のとなりの山を登ると「カニマンうたき」が見えてきます。
漢字表記は『金満御嶽 (カニマンうたき) 』になり、金 (カニ) は金属や鉄類、満 (マン) は満タン (いっぱい)、御嶽 (うたき) は祭祀や拝み場を意味しています。
「カニマンうたき」には『金満按司 (カニマンあじ) 』と呼ばれた人々が眠っています。
「按司 (あじ) 」とは、職を司る主 (あるじ)の事で「金満按司」は金 (カニ / 鉄)を満タン (いっぱい) 持っている『製鉄の先生』あるいは『金属の隊長』という意味になります。
大きい墓、
小さい墓?
(・・?
一族のお墓のような?‥
火の神 (ヒヌカン) など‥
さまざまな拝所 (うがんじゅ) があります。
「カニマンうたき」の中心地のとなりに階段がありました。
階段を登ると、
『お通し (ウトゥーシ) 所』が山の頂きになっていました。
ー(・・? ー・ー
小禄村を支配していた金満按司 (カニマンあじ / 製鉄の先生) の名前は、『泰期 (たいき) 』という人で、その後に北谷村 (今の嘉手納町と北谷町) や読谷山 (ゆんたんざ) へ行き製鉄を行うようになりました。
山の頂きにある『お通し (ウトゥーシ) 所』は、北谷村や読谷山の方角を向いている‥と、いう人もいます。
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あの時の、
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7032489.html
崎山里主の門中 拝所も「カニマンうたき」の中にあります。
崎山里主は、首里市 (今は那覇市) の崎山町に住むようになりました。
首里の崎山町のとなりも「金城町」になっており、金満按司 (カニマンあじ / 製鉄の先生) の足跡、名残り部落になっています。
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「カニマンうたき」の山を降りると、
小禄小学校の駐車場の近くに金満按司 (カニマンあじ) 』と呼ばれた人々の子孫の門中墓が並んでいました。
山の頂きには祖先の拝所 (うがんじゅ) ⇔ 山の下には子孫の拝所があります。
金満按司 (カニマンあじ) 』と呼ばれた人々の中には、
またあの時の、
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7058547.html
糸満の 大里 (承察度 / うふさとぅ) 門中 も関係しています。
糸満市には、大里 (承察度 / うふさとぅ) 門中 の1人・他魯毎(たるみー) 王に関する『白銀堂』という「お社」があります。
『白銀堂』の語源は、白い砂とか銀 (カニ) に関するとも云われ、別名・寄り上げ御嶽 (うたき) とも呼ばれています。
(・・? もしかすると‥
依り代 (よりしろ) とも関係しているかもしれません。
むかし糸満市にも、金満按司 (カニマンあじ / 製鉄の先生) の拠点がありました。
奥間城 (別名・金城 / カニぐすく) という城 (ぐすく = 部落) が製鉄の町であり、砂 → 鉄、砂 → 塩 / 潮など‥通じていました。
首里の「金城」と名前が重複しないように金城 (カニぐすく) → かなぐすく → 兼城 (かねぐすく) という部落名になっています。
今でも「金秀グループ (製鉄工場) 」など‥ 金満按司 (カニマンあじ / 製鉄の先生) の足跡、名残り部落が見えます。
ー(・・? ー・ー
実は‥その、金満按司 (カニマンあじ) と呼ばれた人々は、広範囲に動いており、かなり古くから政権交代など‥関わっていました。しかし、あまり歴史の表舞台には出てきません。
(・・;) なぜかというと‥
(’-’*)♪ これからまた→