先日、あまり見聞きしない糸満の伊敷さん本を購入しました。
糸満の伊敷さん本は、門中 (むんちゅう / 家系図) について詳しく載っており、 どことなくスピリチュル色をしていました。その中で、察度 (さっと) 王の門中がとても気になり、少し旅に出かけました。
察度王の時代、
浮島 (那覇の港) に久米36姓という人々が中国島からやってきました。
察度 (さっと) 王の時代 (1349年~1394年) は、中国島では元~明、朝鮮半島では王氏高麗~李氏朝鮮、日本列島では形式上では「南北朝の合一」が行われました。
同じくの察度 (さっと) 王の時代に、九州島は坊津の龍源寺 (京都仁和寺の末寺) 一乗院から『頼重法印』が浮島 に渡来し、察度王の帰依を受け、王の祈願寺として波之上に護国寺を建て、真言宗を伝えたと云われています。
浮島 (那覇の港) の久米村には中国人、若狭村には日本人、辻村 (遊郭地) には遊女 (じゅり) が多く住んでいました。 当時の浮島に住む日本人は、私貿易 (密貿易) の港→九州島の坊津、日本島の堺、若狭など‥来た人が多く住んでいました。
察度 (さっと) 王の嫡子 (長男) は武寧 王でしたが、本当の長男は崎山里主という人でした。崎山里主は察度王の長男でありながらも殺傷を嫌い仏神に帰依したので、 廃嫡され 崎山聖人 (僧侶) なりました。
言い伝えによると、
崎山里主の母と姉は、辻村の迎賓館で接待のため冊封使の夜の相手をさせられ、崎山里主は母と姉の無念を感じ仏門の道に進んだと云われています。
崎山里主は若狭村と辻村の間の島に波之上熊野権現社 (今は波之上宮) を建て、老後は首里村の崎山に隠居したといいます。
そして、小禄村 (今の那覇市小禄) という所にある金満御嶽 (カニマンうたき) には、崎山門中の御嶽 (うたき) があるという。
崎山里主の母と姉は一生 辻村で暮らし、亡くなったあと辻村 (今の那覇市辻) に「辻遊郭開祖之墓」が建てられ、今でも『水商売の神』として崇められ、旧暦の廿日 (二十日) 正月の「ジュリ馬行事」の際に拝まれています。
昔の若狭村と辻村の間にある「波之上」から真っ直ぐ歩くと、龍の尻尾 (しっぽ) →西武門 (にしんじょう) という所にたどり着きます。
昔の久米村の入口が久米大門 (くめうふじょう) で⇔出口は西武門 (にしんじょう) といい、中央通りは、現在の「久米大通り」になっており、その「久米大通り」は『龍の身体』を表現しています。
久米村に住んでいた人々は『龍信仰』を持っていました。
(・・? ー‥ 確か?‥日本海の若狭も「越の国」の入口で 水神・龍神や 『九頭龍信仰』が盛んな地域でした。そして、浮島 (那覇の港) にある「若狭」と日本海にある『若狭』の共通点は塩田、漆塗りなど‥ありました。
久米大通りにも、水神・龍神や祖霊がこもる『天妃』として漁業、航海の神様を信仰する 『天妃宮』がありました。
ー(・・?ー・ー
あまり、糸満の伊敷さん本の内容とは関係ないお話ですが、その本の門中 (家系図) を見てみると、あれ‥と、思う事がたくさんあったので、色いろ調べていたら?‥不思議な物を見てしまいました。
これまで、久米村の入口を下から何百回も通り過ぎていましたが、まったく気づきませんでした。
昔の久米村の入口が久米大門 (くめうふじょう) で⇔出口は西武門 (にしんじょう) といい、中央通りは、 現在の「久米大通り」になっており、その「久米大通り」は『龍の身体』を表現しています。
\(゜o゜;)/ 歩道橋の上から見ると!
何となく?‥龍の頭のようにも見えました‥
ー・ー
いつから?‥
そんな事に、思いました。
これまで、久米村の入口を下から何百回も通り過ぎていましたが、まったく気づきませんでした。
久米村の入口→久米大門 (くめうふじょう) が龍の頭⇔出口の西武門 (にしんじょう) が龍の尻尾 (しっぽ) を意味するのだとさ‥