1429 (宣徳元) 年
沖縄島の南方にあった南山国 (現・糸満市) に、島尻大里城 (別名・南山城 / 高嶺城) という城 (ぐすく) がありました。
南山国 (島尻大里城) の王の名前は、他魯毎 (たるみー) といいました。
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まづ、琉球国が始まる前、
沖縄島は、北山国 (本店・今帰仁城)、中山国 (本店・首里城)、南山国 (本店・島尻大里城)という『三山国』→3つ国に分別していました。
島尻大里城 (別名・南山城) があった所はいま、沖縄県糸満市大里という住所になっています。
南山国の本店・島尻大里城があった所はいま、高嶺小学校になっています。
今では、城はなく、回りの石垣のみ残っています。
その石垣の内部に糸満市立高嶺小学校と拝所 (うがんじゅ) があります。
*少しだけ、中に進む事にしました。
もともと、鳥居はありませんでしたが、大正時代の皇民化政策とき?‥建てられたと伝わります。
階段を昇り、鳥居をくぐると、お宮が見えてきます。お宮も鳥居と同じく大正時代に建てられています。
右となりに、説明看板が建てられていました。
さらに中に進むと、
これまで点在していた拝所 (うがんじゅ) を1つにまとめた石棺のような柩 (ひつぎ) があり、今でも御願 (うがん) に訪れる人々がいるといいます。
さらに中に進むと、小学校のグランドに通じます。
*しかし、
(・_・; それ以上中に進むと、不審者と思われますので、中に進まないようにします。
島尻大里城 (現・高嶺小学校) の向かい側に、
嘉手志湧井 (かでしがー) という水源があります。
嘉手志湧井 (かでしがー) の他、嘉手志井 (かでしがー)、嘉手志川 (かでしがー) など‥呼び名があります。
沖縄語では、川も湧水も井戸も‥水源をまとめて『かー』など‥言います。
その水源は、当時の南山国に住む人々にとつても、貴重な水源でありました。
1416年に、北山国 (今帰仁城) を亡ぼした中山国 (首里城) の王・尚巴志 (しょうはし) は、1429年に、南山国 (島尻大里城) の王・他魯毎 (たるみー) に、ある話を持ち掛けます。
そのお話は、他魯毎 (たるみー) が以前から欲していた『金の屏風』と「嘉手志湧井」を交替しよう!というお話でした。
それに対して⇔南山国 (島尻大里城)の王・他魯毎 (たるみー) は、『金の屏風』と「嘉手志湧井」を交替しました。その後、南山国の百姓は、貴重な水源を失ったので、次第に、南山国 (島尻大里城)の王・他魯毎 (たるみー) に不満をいだくようになっていきます。
「嘉手志湧井」を手に入れた中山国 (首里城) の王・尚巴志 (しょうはし) は、南山国の人々に、『中山国に従う者は、これまで通り「嘉手志湧井」の使用を許す』と言いました。次第に、南山国の人々の信頼を失った南山国 (島尻大里城) の王・他魯毎 (たるみー) は⇔いとも簡単に、中山国 (首里城) の王・尚巴志 (しょうはし) に亡ぼされてしまいました。
最後は、糸満市の山巓毛 (さんてぃんもー) という高台に他魯毎 (たるみー) は追い詰められました。
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7058547.html
山巓毛 (さんてぃんもー) には、他魯毎 (たるみー) のお墓があると?‥いいます。
1416年に、北山国 (今帰仁城)を亡ぼした中山国 (首里城)の王・尚巴志(しょうはし)は、1429年に、南山国 (島尻大里城)の王・他魯毎 (たるみー)を滅ぼして、3つ国に分別していた『三山国』を統一しました。
そして、中山国 (首里城) の尚巴志 (しょうはし) は琉球国 (首里城)の王・尚巴志 (しょうはし)になりました。*しかしその、『金の屏風』と「嘉手志湧井」を交替お話は、中山国 (首里城) の王・尚巴志 (しょうはし) が⇔南山国 (島尻大里城) の王・他魯毎 (たるみー) を亡ぼした事を正当化するためのお話・・という説もあります。
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話しは飛んでしまいましたが、
今でも、嘉手志湧井 (かでしがー) という水源が、糸満市には残っています。
いまでは、公園地となり、もぐったり、泳いだりする憩の場になっていました。