やちむん通り
2013年8月30日
9月の家賃を納めに、
不動産を訪れた日の事である。
町は次第に、違っていました。
15世紀頃、
南蛮貿易が行はれ、『なんばん』といふ素焼きの焼物(やちむん)が登場しました。
16世紀頃、
豊臣秀吉の『朝鮮役』から朝鮮陶工の手法も九州島→沖縄島に伝はる‥
素焼きの「南蛮焼き」に加えて上薬を塗られた焼物(やちむん)も登場しました。
1662年
焼物(やちむん)は、牧志村に一まとめされた。
人々は、この窯場一帯の焼物(やちむん)通りを『壺屋』と呼び、いつしか地名となるわけであつた。
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1945年
沖縄島を焼く人々が登場しました。
幸ひなことには、
壺屋の一部は奇蹟のやうな一角が生残つてゐた‥
戦火を免れた壺屋の民家、
『しいさあ』が番人のやうに立ちはだかつてゐる。
『しいさあ』と『石敢當』は魔除けである・・
壺屋の焼物(やちむん)通り入口には、
樹齢を経た一本の『がじゅまる』の木におほわれるやうにして、
傾斜面に巨大な登窯が横たはつてゐる。
壺屋は、
ここから曲りくねつた道の両側に、大小の窯を築いて働いてゐたのである。
今では
『煙』の影響から窯場は引越し、
観光地となつてゐる。
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ところで、
南蛮(なんばん)と言ふ文字は、蔑称であつただらうけれども、憧れの意味をこめて使う人々もいました。
今もなお、
『なんばん』が、基本となつてゐるから、
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赤土は待つ
真赤な炎の照り返しに
吹き込まれる生命の音
壺は健やかに生れかし
窯は身を揺るぎし言ふ
信じていなさい私を
赤土は夜空を仰ぐ
星が目をみはつてゐる下で
かれらは待つ
生まれてくる子どもたちを待つ
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(’-’*)♪ なんてネ‥
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