「本能寺と本願寺」 は名前は似ているけど、両社はダイブ違うといいます。
本能寺は法華宗の寺、本願寺は一向宗 (浄土真宗) の寺で、唱え言葉も違い 「犬猿の仲」 時代もあったという。
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本能寺 (法華宗) では 「南無妙法蓮華経」 と『お題目』を唱える 「成仏 (じょうぶつ) 」 の考え ⇔ 本願寺 (浄土真宗) では 「南無阿弥陀仏」 と『念仏』を唱える 「往生 (おうじょう) 」 の考えがあり、「南無 (ナム / なも) 」 とは、インドの挨拶 「ナマステ」 などと同じく 「敬礼 / 帰依」 を意味し、「南無妙法蓮華経」 とは『お釈迦様の教え絶対帰依』⇔ 「南無阿弥陀仏」 とは『私は阿弥陀様に帰依します』とか?‥ 違いがあるようです。
法華宗 / 日蓮宗は『題目 (お経の名前)』← 主に 「お釈迦様」 の教え ⇔ 浄土教 (開祖は空也)、浄土宗 (開祖は法然)、浄土真宗 (開祖は親鸞)、時宗 (開祖は一遍) は『念仏 (仏様の名前)』← 主に阿弥陀様 (極楽浄土へ) の教え
*お釈迦様は地球の先生 ⇔ 阿弥陀様は宇宙の先生、
「題目と念仏」 両社とも大乗仏教の流れだけど違っていたようです。
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晩年の織田信長は、本能寺を拠点とし、本願寺を焼いていました。そのため、晩年の織田信長は 『「法華宗」 に帰依していたのか?‥ 』と、考える人もいるようです。
ところが ⇔
晩年の織田信長は、安土城を築いていましたが、そのころ 安土宗論 という出来事が起きていました。
安土宗論 (あづちしゅうろん) とは、
1579年 (天正7年) に安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。安土問答とも称される。織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華宗の僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。
法華宗は敗れて処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96
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その後の 「法華宗 / 日蓮宗」 側の関係社や歴史家によると、審判 (レフリ) ・織田信長の安土宗論 (題目と念仏の衝突) の採点 (ジャッジ) は法華宗 (題目) 側に『不利な採点』をしていたと解釈が多数を占めているので、必ずしも晩年の織田信長が法華宗に帰依していたとは限らないようにも思います。
やはり、織田信長は神を信じていなかった、ただ単に宗教勢力を利用していただけと考える人もまた多数を占めています。
ー(・・? ー・ー
『侍 (サムライ) 』という文字に 「寺」 という文字がついており、律令制、荘園制の領域?‥ とか、寺と侍、僧兵、寺社勢力など‥ の時代が昔にあり、晩年の織田信長が拠点としていた本能寺は宗教施設であると同時に『武器庫 / 軍事施設』でもあったようです。同じく、織田信長が焼いた本願寺にも僧兵がいました。
*今は違う
安土宗論 (題目と念仏の衝突) の時代は、念仏を唱える浄土系よりも ⇔ 題目を唱える法華宗の勢いが増していたので、織田信長は『軍事バランス』ため法華宗 (題目) 側に 「不利な採点 (ジャッジ) 」 を下したという人もいます。
ー・→
(・・? 実は、織田信長が安土宗論 (題目と念仏の衝突) のレフリ (審判) をした時、五山派で臨済宗 (禅宗系) の鉄叟景秀 (てつそう けいしゅう) を審判者に招いていたという。
‥ー・→ そこで信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申しつけ、京都五山の内でも指折りの博学で評判の、日野に住む臨済宗南禅寺・建仁寺長老・鉄叟景秀 (てつそう けいしゅう) を審判者に招いた。そして折り良く因果居士 (いんが こじ) が安土に来ていたので、彼も審判に加えて、安土の町外れに有る浄土宗の寺浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96
ー(・・? ー・ー
安土宗論 (題目と念仏の衝突) とき、織田信長がレフリ (審判) に招いた五山派の禅宗は、「題目と念仏」 どちらでもないという。
*3つとも違う
禅宗系の仏教では、浄土系の仏教のように念仏を唱えて救われる 「他力本願」 の考えではなく ⇔ 「自力本願」 だといいます。
ー大別するとー・→
禅宗系 → 臨済宗、曹洞宗、黄檗宗‥
題目系 → 法華宗 / 日蓮宗‥
念仏系 → 浄土宗、浄土真宗、時宗‥
密教系 → 天台宗、真言宗‥
その他‥
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3322511.html#bmb=1
また時代とともに、複数の教えを混ぜ合わせた宗派、重き / 比率など‥ あるようです。
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明治時代ころ?‥
女流歌人・与謝野晶子は、鎌倉の大仏を 「お釈迦さま」 と歌いました。
その歌は『お蔵入り』になったと云われています。
(・・;) わたしくは 「お釈迦さま」 ではなく ⇔『阿弥陀さま』と‥