四畳半の部屋
こんな社会はイヤだ、
もう誰とも関わりたく無い。
これから自分は、寂しい山の中で引きこもり たい。
ー?→
(・・? それは
足利義政 (あしかが よしまさ) は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟。
足利義政の父・足利義教は、くじ引きで将軍になった「くじ引き将軍」とも云われています。
―…―…→→
詳しくは解りませんが、
室町時代の中期になると、
管領 (かんれい) と守護大名が実質的な政治を行う仕組みが整備され。当初、
管領は将軍を補佐する役割だったけど、しだいに将軍は政治のお飾り? ような空気になっていたようです。
ー?→
とはいえ、
各種文献を見渡すと、やはり まだ 将軍は政治を動かす力を持っていたけど、室町幕府8代将軍・
足利義政は、政治に無関心で趣味の世界に没頭した「引きこもり将軍」『無能な将軍』など。厳しい評価も散見しています。
⇔ その一方、
これまで、文化 / 芸術といえば公家や武家、寺家の物であったけど、庶民の間にも文化 / 芸術を浸透させる端緒 (糸口) になっているとの評価も見られます。
また、引きこもり将軍・足利義政の妻は、日本3大悪女と数えられる
日野富子でありました。
戦乱で苦しむ庶民をよそに巨万の富を築いた「悪女」「守銭奴」と評される事も多く、夫の義政が東山山荘の造営のため費用捻出に苦心していたときは、一銭の援助もしていないことから「天下の悪妻」とも呼ばれる。一方で、
ー・・→ー・→
それは 歴史のイタズラ? 言っても良いのかは解りませんが、室町幕府の8代将軍・
足利義政を
キッカケとして、これまでは公家と武家、寺家の物であった
『文化 / 芸術』が庶民の間にも浸透するようになっているとも云われています。
その1つが「
四畳半の部屋」で、
足利義政は
四畳半の部屋を最も『
落ち着く空間』とし、こよなく愛していたようです。
(・・? 12畳の広い部屋よりも ⇔ 四畳半の狭い部屋の方が落ち着く
そうした感覚を浸透させたのも室町幕府の8代将軍・
足利義政。だと云われています。
―…―…→→
通称・
銀閣寺 (正式名・
慈照寺) を建てた将軍と知られています。
(・・! また銀閣寺といえば ⇔
ー ー →
室町時代、
金閣寺は絶頂期 ⇔ 銀閣寺は衰退期、
絢爛豪華な金閣寺 ⇔ 侘しく寂しい銀閣寺。
ー ー →
金閣寺 (
鹿苑寺) は、室町幕府の3代将軍・
足利義満が建てた
禅寺 銀閣寺 (
慈照寺) は8代将軍・
足利義政が建てた
禅寺で 両寺は対照的に比較される事が多いようです。
ー?→
一説によると、
通称・
銀閣寺 (正式名・
慈照寺) は 絢爛豪華な
金閣寺 (
鹿苑寺) に対抗する形で
銀箔を貼る予定であったけど、予算不足で銀箔を貼る事できづ、未完成な状態で造られた
銀閣寺? と後世に語られるようになったけど、
足利義政は、当初から銀箔を貼るつもりはなく、侘しくて寂しい空間を好んでいた? とも云われています。
ー?→
ー 関連情報 ー
東山文化 の時代は下剋上 (げこくじょう) の時代にあたっており、新興勢力がもたらす新しい風潮と、旧来の伝統的な文化とが渾然 (こんぜん) と融合して独特の文化を生み出すとともに、現代の日本人の生活様式にまでも深い刻印を残した。東山文化の創造の中心をなしたのは義政という個性的な武家貴族ではあったが、彼の周辺に集まっていた五山派の禅僧や、公家、武家・同朋衆 (どうぼうしゅう)(阿弥号をもち、多くは出身地や家柄などが不明でありながらも、特定の技芸に際だった才能を認められて抜擢され、義政のそば近くに奉仕していた人たち)の活躍が目だった。さらには世阿弥 (ぜあみ) によって大成された能 (のう)(猿楽 (さるがく) 能)をいっそう発展させた能芸者たちや、当時の社会で身分的には卑賤 (ひせん) とされながらも作庭の技芸において優れ、それによって高い評価を得た山水河原者など、さまざまな人々が関与していた。
そのうえ、商工業の発達につれて台頭してきた酒屋・土倉などの高利貸業者をはじめとする町衆の経済力が大きく働いた。したがって東山文化は、平安朝以来の伝統的な公家文化、鎌倉時代以来の武家文化や禅宗文化、そしてこの時代に顕著に現れてきた庶民文化が互いに交流しあい、さらには日明貿易で輸入された唐物 (からもの) とよばれる美術工芸品の数々が珍重されることで成り立っていた。
義政は、きわめて個性的な感覚・美意識によって、いろいろな階級・身分の人々の好みのなかから優れた要素を選び抜き、それを統合しようとした。晩年に京都の東山の山麓 (さんろく) に造営した東山山荘(東山殿 (ひがしやまどの) )は未完成のままに終わったが、彼の理想を建築、庭園その他万般にわたって集中的に表現したものとみられている。https://kotobank.jp/word/東山文化-119171
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さまざまな文献を見渡しても、
室町幕府8代将軍・
足利義政。政治家としての評価はたいへん厳しいものの、
文化 / 芸術の面においては庶民の間にまで幅を拡げる
キッカケを作った人物。との評価も日に日に見られるようになっているようです。
中でも、
銀閣寺の東求堂 (とうぐどう) と呼ばれる阿弥陀堂の内部にある書斎・
同仁斎(どうじんさい)は、今日の『四畳半の部屋』の端緒にもなっており、
足利義政がこよなく愛した空間とも云われています。
… 同仁斎 は →
『人々が みな平等に心静かに読み書きする空間』という意味合いに近い。との事です。
BS 放送では、
ー?→
ー 関連情報 ー
父に似ず無気力な性格で、大乱の張本人として後世史家の指弾厳しいが、芸術面で卓抜した指導力と鑑識眼を発揮し、猿楽師の音阿弥、河原者の善阿弥、画家小栗宗湛、同朋衆の相阿弥など優れた芸術家を育て、世に東山文化と総称される。また「同仁斎」扁額の命名で知られるように平等博愛思想を標榜し、被差別民の登用も行った。
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そうした1面を見ると?
政治に無関心で趣味の世界に没頭した「引きこもり将軍」『無能な将軍』など。厳しい評価も散見する室町幕府の8代将軍・
足利義政。今日のにおける
『文化 / 芸術』の役割は大きいようにも見えます。
*同時に多くの文化を損失させた人とも、
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(・・? 後ほど
室町幕府の8代将軍・足利義政の影響からか?
肌触りの悪い『南蛮焼 (なんばん焼き) 』を美しい。と感じる文化にも通じている。とも云われています。
実は南蛮焼の「
南蛮」という言葉は
侮蔑用語であるけど、
足利義政の影響を受けた 富商の
茶人たちは、質素で肌触りの悪い『南蛮焼 (なんばん焼き) 』を好んでいたといいます。
ー (・・? ー→
もの静かでさびしい、つらく悲しい孤独感、心細い状態、やりきれない気持ち、当惑するさま。心が慰められないさま。
ー?→
こんな社会はイヤだ、
もう誰とも関わりたく無い。
これから自分は、寂しい山の中で引きこもり たい。
━↓─━─扉─━─↓━
そこは、
侘しくて、
寂しい、
落ち着く部屋
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