裏玄関と 「ぬいむん」 の里

阿佐工房

2016年03月22日 00:35

昭和47年
若狭の「鳥浜貝塚」より縄文時代の逸品「赤色漆塗り櫛 (くし) 」が発見されました。

その事から 紀元前 (縄文時代) すでに、その辺りは 「朱色の漆 (うるし) 」 風習があったと云われています。


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その昔、
日本海側に越の国 (こしのくに) があり、いま 南は福井県 ~ 北は山形県の一部までに面していました。


*後ほど、越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国と分割。



古くから 「越の国」 の入口は 「若狭国」 で、古代朝鮮語のワカソ (行き来) が若狭 (わかさ) になった‥ と説 もあります。

また、「若狭国」 は 「越の国」 と 「丹の国」 の間にあった。その一帯は丹生 (にう / 水銀朱) を産する地であったと云われ、防腐剤として丹生 (にう / 水銀朱) が用いられたり、丹生の代わりに朱色のベンガラや漆 (うるし) が塗られる場合もあったようです。

「若狭国」 あたり ~ 北へ向かうと 「杉の木」 ⇔ 南へ向かうと 「松の木」 が多く、「松の木」 は 「杉の木」 より水に強い反面 ⇔ 虫に弱いという特徴が見られた。

そのことから、朱色の防腐剤 → 延いては 「漆塗り」 が発展したとも思われます。
* 「若狭国」 は『漆塗りと塩田』が盛ん。


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そのお話は置いといて、
古くから 「越の国」 の入口は 「若狭国」 で、その日本海側が『裏玄関 / 勝手口』として登場する時代が何度かあり、特に 古代の継体朝 (継体天皇の時代) と室町時代の末期に日本海側の『裏玄関 / 勝手口』が大きく開かれました。その理由は 「瀬戸内海」 の『封印 / 閉鎖』と関係しているように思われます。


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527 (継体21) 年 / 継体天皇の時代、

九州島を支配していた筑紫の君・磐井が『関門海峡』を閉鎖しました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12002475559.html


関門海峡の閉鎖は 「瀬戸内海 → 大和国」 航路の封印を意味してした。

継体天皇が大和入りせづ 「越の国 (日本海) 」 で即位した背景にも通じたと思います。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12092722148.html
*継体天皇の父方は近江国、母方が越の国


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時代は下り、

室町幕府 (足利政権) は「日本国王」という形で十年一朝の間隔で明 (みん / 中国) と勘合貿易 (公貿易) をしていた。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8393148.html そのとき、幕府が派遣する使節には細川氏率いる 「堺商人」 や大内氏率いる 「博多商人」 が随行し、その間で私貿易も行われていた。

1467年
室町幕府の足利将軍家の世継ぎ / 後継者争いから 「応仁の乱 (内紛) 」 が起きた。
* 応仁の乱をキッカケに室町時代は薄れ → 戦国時代に突入する →

1523年
応仁の乱の余波も絡み『寧波 (にんぽー) の乱』が起きた。

*寧波の乱は、今の中国浙江省寧波市で起きた日本人どうしの乱で、細川氏率いる 「堺商人」 と大内氏率いる 「博多商人」 が衝突した事件


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上記の文に、
『細川氏率いる 「堺商人」 や大内氏率いる 「博多商人」 が‥』とありましたが、

大内氏は1部の西日本と北部九州を領し 「応仁の乱」 以降、大内氏が貿易に関する力を増して行きます。


(・・;) 実は大内氏も、あの時の http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12002475559.html 筑紫の君・磐井と同じく 「瀬戸内海」 航路を閉鎖しました。

1467年の応仁の乱以降~

博多商人に対抗して ⇔ 堺商人はこれまでの瀬戸内海 ~ 「坊の津」 航路ではなく 「土佐沖」 航路を開拓しました。

その事と軌を一にしてか?‥

浮島 (那覇の港) にあった若狭 (わかさ) 村には 「和泉国」 の堺から来た茶人、「越の国」 から来た薬人などが多く住む日本人街 (若狭村) がありました。
*今は 「沖縄県那覇市若狭」 という住所


むかし那覇の若狭村は、「塩田と塗物 (ぬいむん) 」 の盛んな地域でした。


那覇の「若狭」は、塩田と琉球漆器 → 漆 (うるし) の塗物 (ぬいむん) の里で、若狭村 (日本人街) には、堺から来た人 → とりわけ 「越の国」 や 「若狭国」 の関係者が多くいたようです。
* 実は、日本海 「若狭国」 も『漆塗りと塩田』が盛ん。


室町時代の前半は瀬戸内海 ~ 「坊の津」 航路 ⇔ 応仁の乱 (室町後期) から 「土佐沖」 航路が開拓されます。

当初、堺商人と博多商人の貿易衝突 ~ しだいに、堺商船と薩摩船の貿易衝突も見られるようになりました。


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応仁の乱が始まる前の1450年 / 室町時代、

臨済宗 (禅宗系) の僧・芥隠承琥 (かいいんしょうこ) は京都の南禅寺より来沖しました。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e7077824.html

芥隠は、琉球王府の政治的ブレーンとして大きな役割を果たし、

1492年には、首里城のすぐ近くに天徳山・円覚寺が建立しました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12121961362.html

円覚寺を総本山とし、天界寺、天王寺といった 「琉球三大寺」 が整備され、当時は僧侶が外交官 (貿易関係) の役割をし、明 ⇔ 琉球 ⇔ 日本との仲介をしていました。

1523年に起きた 「寧波の乱」 は、異国の地で堺商人と博多商人の衝突事件により、明 (みん / 中国) は怒り心頭し、国交も断絶していましたが、琉球天王寺の住持・檀渓禅師の仲介により関係改善がなされています。
*檀渓禅師は薩摩生で京都南禅寺の僧侶 (外交官) でした。

前半は 「堺商人と博多商人」 の衝突により『日明貿易』は一時期止まったが再開した。そして、後半から 「堺商船と薩摩商船」 の緊張関係が見られるようになります。

室町時代の琉球国は、東アジアにおける仲介交易の全盛期で、琉球は日明両属の国であった。日本の商船から銅銭を輸入し交易に使われ、琉球経由にて東南アジアから胡椒や蘇木 (そぼく / 蘇芳) などの薬種・香料・染料に関する品物が多く見られ、特に 蘇木 / 蘇芳 (すおう) は、朱色の染料や薬種、医薬品の原料として貴重でした。


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さらに時代は下り、
江戸時代の1609年以降、 「堺商船」 は姿を消し 「薩摩商船」 が琉球経由の日明貿易を行うようになります。
* 堺商船 には 「越の国」 や 「若狭国」 の関係者も多く乗っていたようです。

1639年 / 江戸時代、
もと 「越の国」 → 加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代・江戸幕府の委託事業、生産性の低い領地、などの要因で財政難に苦しめられていた。そこで富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために産業を奨励した。


そのひとつに製薬(売薬商法 / 置き薬)があった。

17世紀終期、富山藩の2代藩主・前田正甫が薬に興味を持ち →‥‥← これが富山売薬の創業とされる。

室町時代ころ 「薬種商」 が始まったと云われ、富山の売薬とは、古くから富山県にある医薬品配置販売業 (置き薬) の通称で、富山で薬種商が始まったのは16世紀中ごろ、越中に薬種商の唐人の座ができたことである。17世紀初期から中ごろにかけて丸剤や散剤を製薬する専業店が現れる。開業当時は薬種販売のみを行い、それから製薬業に移ったと思われる。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%A3%B2%E8%96%AC


置き薬の本社?‥ 発祥地


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しだいに江戸時代、
日本海 ~ 瀬戸内海 → 大坂に「北前船」という航路(ルート)が整備されていました。

ある日、富山の薬売りが、大坂で薩摩の島津家と交渉をしました。

富山の薬売りは、中国産の漢方薬を欲しいと思っていました。そして、 中国は昆布が欲しいと思っていました。当時の日本と中国は国交をしていません。島津家は、琉球を通して中国と通じていました。

しかし、琉球(沖縄)では、昆布が採れない。そこで、釧路 → 富山 →大坂 → 琉球 → 中国に「昆布ロンダリング」が行われる事になりました。
*今でも、富山県と沖縄県が昆布の消費地になっているのは、その名残りだと思われます。


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*参考ブログ

戦国時代の移住ブーム
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/110118/98518/6670937

昆布と富山の薬売り
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/110118/98518/12642272














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