本当の音色

阿佐工房

2015年12月12日 00:10

1614 (慶長19) 年
「方広寺鐘銘事件」が起きた。

事件は、寺にかける 「鐘 (カネ) / 梵鐘 (ぼんしょう) 」 に記された文字をめぐって、将軍・徳川家康が 『お怒り』になった出来事だと云われています。


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その前の 1600 (慶長5) 年
「関ヶ原の戦い (東西の戦い) 」 が起こり、東軍・徳川家と西軍・豊臣家の戦いでは徳川方が勝利し、江戸時代 (徳川政権) が始まろうとしていました。

その時代、まだまだ西日本には徳川家 (江戸幕府) の言うことを聞かない豊臣家の残党が西日本各地に隠れ潜み、完全に徳川政権の手中には治まっておりません。


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一説によると、
この「方広寺鐘銘事件」をキッカケに、大坂 冬の陣 → 夏の陣 という第2 → 第3の戦いに通じ、その戦いの勝利により江戸時代 (徳川政権) が幕開けしたと云われています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA


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将軍・徳川家康が 『お怒り』になった 「鐘 (カネ) / 梵鐘 (ぼんしょう) 」 に記された文字とは、

鐘銘文中に「国家安康」「君臣豊楽」という部分で、

「国家安康 (こっかあんこう) 」は、徳川家康の名前を分断し、

「君臣豊楽 (くんしんほうらく) 」は、豊臣家の繁栄を願い、徳川家が没落するように呪いが込められている。

という事でした。


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そのほか、「鐘銘事件」が起きた寺の名前 → 「方広寺」も秘かに『豊公寺 ≒ 豊臣公の寺』を意味していた説もある。その後、敷地内に『豊国神社』を建てているので‥ などと云われています。

「鐘銘事件」について、
今でも徳川家康の単なる『言いがかり』だという人 ⇔ 違うと意見、2つあるようです。



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さらには、
徳川家康に 「鐘 (カネ) / 梵鐘 (ぼんしょう) 」 に記された文字の事を耳打ちしたのは天海和尚という僧侶で、天海和尚は 「本能寺の変」 で織田信長を亡ぼした『明智光秀 ≒ 天海和尚』という説もある。*徳川家康に耳打ちしたのが『天海和尚 ≒ 明智光秀』という説が真か否かは?定かではないが、 耳打ちしたのが『僧侶』であった事は確かなようです。

という事は、
その時代の『僧侶』の間では、「梵鐘 (ぼんしょう) 」 に本当の音色を記す習慣があった可能性も否めません。

近年では、この「方広寺鐘銘事件」をキッカケに、大坂 冬の陣 → 夏の陣 という第2 → 第3の戦いに通じ、その戦いの勝利により江戸時代 (徳川政権) が幕開けしたと同時に、単なる徳川家康の『言いがかり』でもないという解釈が増えつつあります。

さまざまなミステリー説が出るほどの謎 (なぞ) → 教科書には載らない / 載せる事ができない秘密 (ひみつ) の部分が存在し、武家社会のほか、寺社勢力、公家社会、神と鬼の関係など‥ 見えない対立構図が、まだまだたくさんあると云われています。





















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