夏の終わり
古代の一般庶民は、風呂場はもちろんの事、町湯もなかった。
寺院浴堂を利用させてもらうわけで寺院では仏の功徳として無料で施す場を施浴(せよく)とよんでいたようです。その際は仏典に従って明衣(めいい)みようえ(あかとり)ともいう衣を着て入浴するよう堅く戒められていた。
この明衣を今木または今衣(いまき)とも書かれている白麻の湯帷子(ゆかたびら)の事である。
本来は湯や風呂に着て入っていましたが、のちに湯から上がって体を拭う時に用いられるようになった。
平安末期~鎌倉初期の頃から湯帷子の窮屈さを嫌って、のちには幅の広い白布を腰に巻いて入浴するようになったとさ→その白布の事を「湯文字」といい、帯の事を「おもじ」といっていたようです。
鎌倉時代に入ると、寺院には身を浄めるための浴堂がありましたが、荘園制度が崩れ、寺領の年貢収入が不安定になったため寺院が入浴料をとって「浴堂」は次第に「銭湯」へと移りました。最初の頃は番台には、お坊さんが坐っていました。
湯帷子(ゆかたびら)は、元緑の世を描いた井原西鶴の時代には、白布ではなく、色や柄がつけられて入浴用ではなくなって「黄唐茶(きがらちゃ)に刻稲妻(きないなづま)の中形、身せばに仕立て・・・」となり、湯帷子は中形とよばれ街着になっていました
中形とは、型染の型紙の柄の大きさから名づけられ、中形(ちゅうがた)は今では浴衣(ゆかた)となりました。
その場所は、
風呂屋女の風俗で、そこへ遊びにくる客は、新しき下帯を見せかけ、預けゆかたをこしらへ・・・
5人女には「あぶき流しの中なれるゆかた」・・隠すための湯帷子は、浮世絵の時代に入ると、見せる浴衣へと変化して行きました。
歌麿の「煙管持てる女」 「湯上りの美人」 「扇屋内滝川」は共に鳴海(有松)の蜘蛛絞りの浴衣でした。浮世絵から見た浴衣は主に有松絞りが目立っている。絞りの方が色ぽいし『格』も上だったようです
この絞り浴衣は、江戸火消しがつくられた頃に発展しました。
町火消しは享保年間(1716~1735)年、将軍吉宗が大岡越前守を町奉行に任じてからであるが、その火消し人足は、もとはというと、博打打(ばくちうち)賭博などの鳶職であった。
彼等は町費で給料を貰っていたが、大店などにへつらい、後には従業とかわりなくなつている。
それというのも大店では、もし火災が発生した時に真っ先にかけつけてもらいたいところからふだんから金銭を与えていたようです。
収入のよいところから、当然生活も派手になり、侍でも町人でもない彼等独特の風俗がつくられ⇔これを粋(イキ)といった。
もしかすると?『浴衣』は『着物』というより粋(イキ)がった『バスローブ』なのかもしれない?
それは粋(イキ)だね・・
ー・ー・ー
ゆかたびら
お前の散在は
はてしない白布のひろがりのただなかに
素直なる心の性
めくるめく酷烈の湯のもとに
静かにその宿命は息づいてゐる
四季絶えぬすべりのやうに
色鮮やかにふちどられて
夏衣の行きかふ場所
まだ見ぬ人々にはどう告げればよい
この夢にも似た文様を
見せるゆかたは
不幸せを嘆くいたづらな心身はない
隠すゆかたびらを着よう
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