もう1つの 明治維新 その3

阿佐工房

2016年03月04日 00:56

以前のブログ、
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8393272.html
こんな文を載せました。


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あの時、『本能寺の変』が起きていた。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8393104.html

主君・織田信長が『本能寺の変』により亡ぼされた時、徳川家康は 「和泉国の堺 (さかい)」 にいた。堺 (さかい) から遠く離れた三河の岡崎城 (自身の居城) へ 徳川家康は 「ものすごい」 スピードで舞い戻ります。
*大阪府 → 愛知県へ


当時 / 戦国時代、 東海道は整備されておらづ、険しい山道をどのような経路で? 舞い戻ったのか? と云われています。
*東海道は江戸時代に本格的整備、


ー・→


徳川家康は『摂津国佃村の海人』の手を借りて自身の居城に舞い戻ったとも云われ、徳川家康が江戸入りした際、その時の恩賞として、『摂津国佃村の海人』を江戸に住まわせ、彼らが住んだ地は東京都中央区佃という住所になっており、佃煮 (つくだに) の産地にもなっていたようです。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%8C%BA)

『摂津国佃村の海人』は、 「住吉三神」 に関する?‥ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE


ー↑ー http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8393272.html



も少し以前のブログ、
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8356420.html
こんな文を載せていた。


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東京の「半蔵門」の名称は、徳川家康に仕えた服部半蔵が率いる「忍者の町」で、上野駅近くの不忍池や上野山は忍岡山とも呼ばれ、隠密 (おんみつ) の里であったと云われています。


ー↑ー http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8356420.html


徳川家康は 「摂津の海人」 の手を借りて自分の居城に舞い戻った説 ⇔ 「伊賀の忍者」 の手を借りて自分の居城に舞い戻った説、2つ説があります。


不安定な戦国時代まっただ中、険しい山道には山伏 (やまぶし / 山の武士) など、徳川家康の命を狙う人はたくさんいました。
*当時の山伏は僧侶であり兵隊 (僧兵)

また、山伏 (やまぶし / 山の武士) の中には、熊野信仰や白山信仰といった修験道 (山岳信仰) を持つ修験者がたくさんおり、時には農民、時には職人、商人、山人、また時には 「忍者 (隠密 / おんみつ) 」 に通じる人々がたくさんいました。


ー・→


徳川家康は海人の手助けで舞い戻った説 ⇔ 徳川家康は山人の手助けで舞い戻った説、2つ説があります。

また、徳川家康には影武者がいた説 → 徳川家康は二人いた説など‥ 隠密 (おんみつ) 色も強く、徳川家康は 「海人と山人」 そして → 隠密 (おんみつ) を利用していた可能性が非常に高いです。

そこで!ここから先 →
徳川家康は二人いた。そして、「海人と山人 / 隠密 (おんみつ) 」 を利用し、織田信長 → 明智光秀 → 豊臣秀吉 → 短期間の政権交代、すべての集大成を徳川家康が手に入れた。と考えて見ました。


ー(・・? ー・ー


徳川家康は、
織田信長 → 明智光秀 → 豊臣秀吉 → の 「路線」 を引き継ぎ → 不安定な戦国時代は終わり → 江戸時代が始まります →

日本の 「国家体制」の始まりは ほぼ『仏教体制』で、http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8447008.html 奈良仏教 → 平安仏教 → 鎌倉仏教 → 室町仏教 → 不安定な戦国時代 → 江戸時代の徳川政権 → という体制になりました。

日本の仏教体制 (国家体制) は多くの人々を救う事ができる 大きな乗り物 → 「大乗仏教」 に分類されています。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8453990.html
*奈良仏教 (顕教) も平安仏教 (密教) も同じ大乗仏教

奈良仏教と平安仏教は貴族仏教で、貴族しか乗る事ができなかったが、鎌倉時代に入ると武士も乗る事ができるようになりました。
*奈良時代と平安時代は 「公の政権」 ⇔ 鎌倉時代は 「武の政権」

しかし、奈良仏教と平安仏教 (公の船)、鎌倉仏教 (武の船)、どちらにも乗れない人々がいました。

それは国家体制が 「農」 を中心とした 「農本主義」 であったので、http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8447008.html 「海人と山人」 そして → 隠密 (おんみつ) という仕組みに通じて来ます。


ー・→


極端なお話、
古代から 「農本主義」 と『重商主義』の 2つ体制 が存在し、織田信長も豊臣秀吉、徳川家康も政権交代する前は『重商主義』に重きを置いて ⇔ 政権交代した後は 「農本主義」 に重きを置いていたように思われます。

乗り物 → 「船」 を『国土』に当てはめると、政権交代する前は 「船 (国土) 」 を壊し→ 政権交代した後は 「船 (国土) 」 を守るという仕組みになります。

そうすると、
「奈良仏教 ~ 室町仏教」 → 不安定な戦国時代に登場する織田信長 → 明智光秀 → 豊臣秀吉 → 徳川政権 (江戸幕府) → 明治維新 (明治政府) とも、政権交代する前は『重商主義』⇔ 政権交代した後は 「農本主義」 という国家体制になっている様子が見えて来ます。

いわば、
明治維新の波は国家体制 (2つ体制) の始まり頃から始まっていました。

明治時代の明治維新は 「海外勢力と重商主義」 が原動力になっていましたが ⇔ すでに奈良仏教 (国家体制) 頃から 「海外勢力と重商主義」 が原動力になっていました。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8447008.html
*奈良時代と戦国時代の 「海外」 は、東洋か西洋かで違う。

戦国時代の 「海外」 はキリスト教で、戦国時代に登場する織田信長、豊臣秀吉、徳川家康 3者とも、前半はキリスト教を利用し ⇔ 後半は警戒するなど 3者とも、前半は『重商主義』⇔ 後半は 「農本主義」 に重きを置いていました。

例えば、
豊臣秀吉による 「太閤検地」 や 「刀狩り」 を見ると、政権交代する前は 「船 (国土) 」 を壊し→ 政権交代した後は 「船 (国土) 」 を守るという仕組みに通じます。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0


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その後、江戸幕府 (徳川政権) は、オランダ (キリスト教) に対しては警戒をゆるめていましたが、オランダは国土の6 ~ 7割?‥ ほど 埋立て地で、 「農本主義」 よりも『重商主義』に重きを置く国であったように思われます。*当時のキリスト教には 「政治と経済」 が付随していました。

そして今度は、
政治は 「農本主義」 ⇔ 経済は『重商主義』に当てはめて見ると、政権交代する前は『経済 (重商主義)』に重きを置いて ⇔ 政権交代した後は 「政治 (農本主義)」 という国家体制になっている様子が見えて来ます。

そうすると、
「政治 (農本主義)」 の徳川家康 ⇔『経済 (重商主義)』の徳川家康、2つ体制 → 徳川家康は二人いた説に通じるかもしれません。

(・・;) また考えてみます →

















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