「敵は本能寺にあり」
1582 (天正10) 年6月1日
明智光秀率いる13000人の軍勢は、主君・織田信長の命令とは違う方向へ進んだ。
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当時、織田信長の子分・豊臣秀吉は、中国地方を支配していた毛利家と決闘をしていた。同じく織田信長の子分・明智光秀は、毛利攻めを行っている豊臣秀吉の援軍ため、備中国行きを命じられていた。
⇔ ところが‥
丹波亀山城を出発した明智軍は、中国地方 (備中) へは向かわづ、主君・織田信長がいた京都四条西洞院の本能寺へ向かった。そして、織田信長は自刃し本能寺は火の海に消えた。
この謀反事件は 「本能寺の変」 と呼ばれ、今でも 「本能寺の変 (織田信長暗殺事件) 」 の闇は意味深い謎 (なぞ) と云われています。
事件の謎 (なぞ) は、織田信長に対する明智光秀による 「怨恨説」、天下を目指す 「野望説」、背後の 「黒幕説」 など‥ 歴史家100人100通りの説がある。中でも、怨恨説と野望説の可能性は低く、背後の 「黒幕説」 が高いと云われています。
当時、織田信長に怨恨 (うらみ) を持つ者はたくさんいたが、後先考えづ個人的感情で不意討ち行動を支持する人々はいなかった。
*主君を変える部下もいた。
巨大化していた織田信長の天下取りは一歩手前で、その後継ぎは重荷、しかも武士道に反する行動をした新たな主君を考えると 「野望説」 も否定される。やはり、背後の 「黒幕説」 可能性が高まります。
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背後の 「黒幕説」 について、
その後に天下人となった豊臣秀吉が黒幕説、あるいは徳川家康が黒幕説、商業利害が悪化していた堺商人、四国の長宗我部氏、中国の毛利家、本願寺や比延山やキリスト教といった国内外の宗教勢力、朝廷が黒幕説、複数重複の共犯説など‥ ある。
上記中でも、信憑性と秘密 (ひみつ) 性、関連性が見られるのは朝廷説とキリスト教説、国内外の宗教勢力との複数重複説で、例えば千利休 (せんのりきゅう) の回りを見ると事件の謎 (なぞ) に近づく予感がして来ます。
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千利休 (せんのりきゅう) は、臨済宗大徳寺派の禅僧であると同時に 「隠れキリシタン」 でした。和泉の堺 (さかい) で生まれ、利休はむかし 「千宗易」 という名前であったが正親町 (おうぎまち) 天皇より 「利休」 と号され『千利休』という名前になっていました。
*千利休 ≒ 千宗易
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後半の織田信長は、リアリスト / 無神論者であったと考える人も多く、キリスト教を弾圧し ⇔ キリスト教を保護していました。その事は、キリスト教に付随する文明は受け入れるが、信仰は否定していたとも、イエズス会は元祖 CIA (諜報機関) であったから? とも云われています。
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和泉の堺 (さかい) は租界地 (密貿易の港) でキリスト教や海外勢力など‥ 裏玄関であった。
*千利休は堺生まれで 「隠れキリシタン」 でした。
織田信長は、神の存在を否定していたが神 (天皇) になろうとしていた。実際に織田信長は、正親町 (おうぎまち) 天皇に退位を迫っていました。*千利休の名付け親は正親町天皇
網野善彦氏は『神 (天皇) と鬼』は深く通じていたと言っていましたが、織田信長が天下を取った場合、鬼と呼ばれた人々 → 「ケガレを浄 (キヨ) める」 職業 → 浄土系の信徒は非常に困ります。
(・・;) 国内外の宗教、神と鬼の関係、「危険と隣り合わせ」 近づいて来ます。
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千利休が歴史の表舞台に登場するのは、織田信長に茶頭として大抜擢された1572年前後のこと。*茶頭とは、信長が作った職制に組み込まれない役職で、接待のため 「お茶会」 を開く役人で、織田信長は『茶の湯』を政治に利用していた。
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1582 (天正10) 年6月1日
その日、織田信長は京都四条西洞院の 「本能寺」 で盛大な茶会を催していた。その日の夜、明智光秀の謀反によって命を絶たれた。
当時、千利休ら茶頭3人は徳川家康を和泉の堺 (さかい) で接待していた。
「本能寺の変」 事件後、千利休ら茶頭3人は織田信長の後継ぎ → 豊臣秀吉の茶頭となり、千利休の能力を高く買っていた秀吉は、利休を茶頭の筆頭に任命し、次第に千利休は権力の中枢に関わり秀吉の政治的・軍事的ブレーンも務めるようになります。
武の豊臣秀吉 → 茶の千利休 ← 公の正親町天皇が結びつくのは、1585 (天正13) 年に行われた 「禁裏御茶湯」 の時で、この茶会で豊臣秀吉は事実上の天下統一という関白任命式が催されたという。
⇔ ところが、
その6年後、豊臣秀吉は千利休に切腹を命じるほど二人の関係は悪化していました。その原因は通説とは違い、豊臣秀吉の西へ朝鮮出兵 ⇔ 東へ小田原征伐 → 2つ戦争と関係しているとも云われています。
もともと織田信長も豊臣秀吉も和泉の堺 (さかい) の自治権の巨大化を警戒しておりましたが、豊臣秀吉による朝鮮出兵ころ堺商人よりも博多商人を優遇し、堺の自治権が弱まっていたようです。
1590 (天正18) 年に豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原の北条氏 (後北条氏) 征伐を行いましたが、小田原城にいた千利休の愛弟子 (まなでし) の山上宗二が亡くなったという。
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豊臣秀吉の令により、千利休が切腹した日は、春だというのに大粒のアラレが降り続いた。
利休の死後、
秀吉は 「昨日は、利休の流儀で茶会を催し、利休を思い出しつつ茶を飲みました」 という手紙を母に送ったり、家臣に対しては 「伏見城は利休の好むような設計で建てよ」 という書状を出していたという。
利休没後、堺の町は衰亡し、秀吉の威光も見る間に衰えて行き、利休の死後から24年‥ 「お茶」 と深く通づ事件が起きた。
千利休は度々、徳川家康と茶会を催していた事も豊臣秀吉は快く思っていなかったようでした。
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千利休は、正親町 (おうぎまち) 天皇 ⇔ 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康、国内外の宗教勢力、お茶色と浄土色など‥ 関連性が見られます。
(・・;) それを知りすぎた時、
http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8356420.html その後に彼は沈黙した‥
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「本能寺の変」 が起きた時、織田信長の子分・豊臣秀吉は、中国地方を支配する毛利家と備中国で決闘している真っ只中。同じく織田信長の子分・徳川家康は、自由商業都市・堺にいた。
*当時の主従関係 → 織田信長 > 豊臣秀吉 > 徳川家康
豊臣秀吉と徳川家康は事件を予期していたかのように拠点に舞い戻ります。
真相は闇の中だが、
もう少し 「お茶」 と深く通づ事件について考えてみようと思います。