糸の原料である 繊維を撚 (よ) り合わせることを「紡 (つむ) ぐ」、引き伸ばすことを「績 (う) む」‥といい、原料の繊維から糸の状態にするまでの工程を『紡績 (ぼうせき) 』といいます。
主に、木綿、羊毛、麻糸などの短繊維を長い糸にする工程を紡績糸‥ また、蚕の繭から繰り出した 長繊維 (生糸 / きいと) を数本まとめて撚 (よ) る工程を製糸‥ 合成繊維 (ナイロン、レーヨンなど‥) から糸をつくることを紡糸‥ と、いうようです。
最初は手紡ぎ、手績みが行われ、10~12世紀ころ、インド方面で「糸車」が考案され、その糸車によつて紡績の手間が軽減され、やがて紡績機、製糸場へと繋がっていった。
1783 (天明3) 年、岩瀬吉兵衛という人が水車の水力を使った「八丁撚車 / 八丁撚糸機 」 を発明しました。これまで、手廻し1つ生産の糸車による撚糸 (ねんし) ~ 水車による大量生産の八丁撚糸車に移りはじめました。
1801年、フランスのマリー・ジャカールという人が「ジャカード機」という自動織機 (じどうしょっき) を発明し、1872 (明治5年) に京都府が西陣機業関係者3名をリヨンに送って学ばせ、帰国時に機械を持ち帰らせたという。
遡ること 1730 (享保15) 年、京の西陣で大火災が起き、織機7000余り台が焼けました。そこで、失業した織師や染師が職を求めて桐生の地に来ていました。その中に、後に八丁撚車を発明した吉兵衛も含まれていたといいます。
*撚糸 (ねんし) とは、「細い糸」を撚 (よ) り合わせて『太い糸』にする事です。
明治10年ころ、八丁撚車機で糸生産→ジャカード機で織生産→大量生産が可能になったようです。そのころ、日本の重要産業は「紡績業と製糸業」でありました。
明治10年に森山芳平、星野伝七朗、園田倉十朗という人々がジャカード機を購入していました。 *当時の外国製ジャカード機は、取り扱い、修理など‥非常に難しいかったという。
ある日、桐生の地でジャカード機の部品が壊れた時に、たまたま井戸のポンプ修理に来ていた越後の村田という鍛冶屋と森山氏は出合う事になる。そして次第に村田は、 外国製ジャカード機に取りつかれて行き、森山氏とその弟子・高刀氏とともに『国産ジャカード機』の開発をして行きました。
その森山氏の弟子・高刀氏は後ほど蔵前工高の先生となり、豊田自動織機 (しょっき) の豊田佐吉の技術協力者でもあったと云われています。
ー(・・? 詳しくは知らないが、 豊田佐吉という人が「富岡製糸場」という所をきっかけに‥ 手織り機~糸車→自動織機~自動車に?‥ というふうな言い伝えもありました。そして、日本の重要産業は次第に「糸車」~『自動車』へと→移動して行きました→
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そしてある日、
木綿の綿糸を購入しに行きました。
お店の人に「半巾帯の経糸 (たていと) を下さい」‥と、いい木綿の綿糸を12綛 (カセ) 購入しました。
領収書を見てみると !! 謎 (なぞ) の暗号が記されていました。
それは「綿 20 / 2」‥と、いう暗号でした。
さっそく調べてみると、
英国式では、840ヤード (768㍍) の綿糸を1綛 (カセ) と呼んでいるようです。
1ポンド (450㌘) 中にある綛数を番手 (または番号) といい、10 綛で1ポンドある綿糸は10番の糸、20 綛で1ポンドなら20番の糸、30綛で1ポンドなら30番の糸といい、綿糸の単位=番手の数字が大きくなるほど、綿糸は細くなります。
「30 / 2s」と記された場合は、30番を2本撚り合わせて作った綿糸なので「30 / 2」→30 ÷ 2=『15番』の太さの綿糸になるといいます。
また、1本の綿糸=「単糸 (たんし) 」を2本に撚り合わせた綿糸を『双糸 (ふたこ) 』といい、 「綿 20 / 1」 は『ニマルの単糸 (たんし) 』、「綿 20 / 2」 は『ニマルの双糸 (ふたこ) 』、「綿 20 / 3」は『ニマルのミッコ』と‥呼んでいるという。
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と?‥いう事は「綿 20 / 2」‥と、いう暗号は、20 ÷ 2=10番の太さで『 ニマルの双糸 (ふたこ) 』の綿糸になる?‥のか?‥
10番の単糸を?‥ 2本撚り合わせて20の双糸?‥は10番の太さ?‥
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いまだ「綿 20 / 2」‥と、いう暗号の意味が詳しくは知らないのだか?‥
眠くなったので、
眠る事に‥