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琉球の王統  その2

これからするお話は大変危険なものです。その賛否については殺人事件にまで発展しかねません。

その論争は、かなり古くから存在し 今でも続いています。そのお話を危険にしているのは『政治的な国境』だと云われています。*文化的に国境はないけど、


ー・ー


最近では、こんなニュースが流れていました。

「Yahoo NewS」
沖縄は先住民でない  反応複雑
2016年4月28日 15時52分 掲載

政府「沖縄は先住民ではない」 県内の反応は? 沖縄の人々を「先住民族」とする国連人種差別撤廃委員会などの見解について ‥→ http://news.yahoo.co.jp/pickup/6199372 その NEWS は、民族分断工作か? 地方自治差別か? 色いろ『政治的な国境』があると思います。


ー・→


その賛否については、
今の沖縄県、昔の琉球国の時代から存在し続いています。

似たようなお話は、
2015年ころ、NHK サッカー日本代表の応援歌に 「混じり気 (まじり血) のない‥ 」 という歌詞の賛否について、ありました。http://www.asyura2.com/13/hihyo14/msg/414.html

琉球の王統  その2
日本人は単一民族か否か? 縄文人か弥生人? そして、琉球人は日本人か中国人か? 琉球人は先住民族か否か? 南方経由あるいは北方経由? など‥ 通じるお話です。


ー・→


現代社会において、
まことしやかな論争ですが、その賛否について、かなり古くから今でも続いています。

結論をいうと、
琉球の歴史や文化はとても『チャンプルー』というのが本当なのですが、そうした まことしやかな論争が生まれるのは、色いろ『政治的な国境』があるように思われます。*チャンプルーという言葉は南方経由で、昔インドネシアの 「ごちゃ混ぜ料理」 → チャンプール が語源と云われています。また、相撲取りの 「ごちゃ混ぜ料理」 → ちゃんこ鍋 など‥ 云われています。

実は‥ 文化的には国境はないのですが、やはり人々を熱くし殺人事件にまで発展しかねないのは『政治的な国境』です。


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前置きが長くなりましたが、
これから、危険なお話をします。

1156 (保元1) 年7月
平安時代の末期に 「保元の乱」 が起きました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/保元の乱 

琉球の王統  その2
琉球の歴史本・中山世鑑 には、こんな お話が載っています。


ー・→


「保元の乱 / 1156年」 で平清盛に敗れた鎮西八郎・源為朝(ためとも)は、伊豆大島に流刑にされました。

実はその時、源為朝(ためとも)は伊豆大島に行く前に、伊予の河野水軍に助けられ「運」を「天」に任せて南の島へ向かった。


琉球の王統  その2
源為朝(ためとも)は、沖縄島の北に位置する今帰仁 (なきじん) 村に辿り着いた。


琉球の王統  その2
源為朝(ためとも)が「運」を「天」に任せて辿り着いた港は『運天港』と呼ばれるようになりました。


ー・→


後ほど 源為朝(ためとも)の子は、琉球国の初代・舜天 (しゅんてん) 王 となった。

初代国王・舜天 (しゅんてん) 王 の子孫が、あの時の 義本 (ぎほん) 王で、太陽の子 (てだ子) である 英祖 (えいそ) 王に王位に譲りました。http://asakobonobulogu.ti-da.net/e8629620.html 


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源為朝(ためとも)の子である 舜天 (しゅんてん) には、幼い頃から頭の左側に角のように大きな瘤 (こぶ) があり、回りから 「源為(ためこぶ)  」 と呼ばれていました。

そのため舜天 (しゅんてん) は、角のような瘤 (こぶ) を隠すように左側に髪を結った『左カタカシラ』という髪型をしていました。

琉球王府の重臣たちも、初代の国王・舜天 (しゅんてん) 王 にならって『カタカシラ』という髪型をするようになります。


例えば、
琉球の王統  その2
秦の始皇帝時代 「兵馬俑」 から『カタカシラ』の髪型をした人々が出て来ました。

 ⇔

琉球人 (王族 / 支配層) は明治12年 (琉球処分) まで『カタカシラ』という髪型をしていました。*庶民は違う


ー(・・? ー・ー



琉球の王統  その2
琉球の歴史本・中山世鑑


ー・→


 ⇔ 一方、

雷 雷 雷 

爆弾 んなわけない 雷むかっ
‥ と、異論もまた古くからあります。


ー・→


それは、琉球の歴史本・中山世鑑 は 1609年に日本と琉球が戦争をし、琉球が敗戦した後に作られた歴史本であるから‥ という異論 / 反論です。

1609年 / 江戸時代初めの戦争時、
薩摩の島津家が主な部隊で、Go サインを出したのは江戸幕府の徳川家康でありました。*当時、徳川家康も薩摩の島津家も 「源氏」 を祖 (おや) としていました。

徳川家康のフルネームは、
徳川次郎三郎朝臣家康という 「源氏」 の名を持つ家柄で、徳川家康の祖 (おや) は『徳阿弥』という上野国の 「源氏」 の出自になっていました。

そして、薩摩の島津家の初代・島津忠久は鎌倉幕府を開いた源頼朝  (よりとも)  の『隠し子』という言い伝えが当時はありました。


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琉球の王統  その2
源為義  (ためよし)  の長男が源義朝  (よしとも)  、三男が源為朝(ためとも)で、長男・源義朝  (よしとも)  の子が源頼朝  (よりとも)  で、舜天 (しゅんてん) 王 の父・源為朝(ためとも)は鎌倉幕府を開いた源頼朝  (よりとも) のおじさんになります。


ー(・・? ー・ー



琉球の王統  その2
琉球の歴史本・中山世鑑


ー・→


また、琉球の歴史本・中山世鑑 の編纂者・羽地朝秀は『日琉同祖論』の考えを持っていました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日琉同祖論 その考えは、日本島 → 九州島 → 沖縄島ともに祖 (おや) は「源氏」である。という考え方に通じ、延いては戦争の正当化、琉球は日本の 附庸国 (ふようこく ≒ 従属国) であったという考え方に通じてしまうので、根強い反発がまた古くから存在していました。

実は‥ 舜天 (しゅんてん) 王 の父・源為朝(ためとも)伝説は、琉球の歴史本・中山世鑑 よりも昔、1609年 / 江戸時代の日琉戦争よりも昔の室町時代から存在していました。


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『日琉同祖論』の起源となる源為朝琉球渡来伝説は、16世紀前半にはすでに日本において文献に現れていることが明らかになっている。現在確認されているその初出は、京都五山の臨済宗僧侶・月舟寿桂(1470年 - 1533年)の「鶴翁字銘井序」においてである。

そこで、月舟は信憑性は分からないがと断りながら、「日本には、源為朝が琉球へ渡って支配者(創業主)となったという伝説がある。そうであるなら、その子孫は源氏であるから、琉球は日本の附庸国である」という内容を記している。つまり、源為朝来琉説が、16世紀前半には京都五山の僧侶の間である程度流布していた事実が確認できる。

この源為朝来琉説が、日琉間の禅宗僧侶の交流を通じて琉球へもたらされ、それが後年羽地朝秀が『中山世鑑』を編纂する際に影響を与えた可能性が指摘されている。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日琉同祖論


ー・→


 ⇔ 一方、

雷 雷 雷 

爆弾 んなわけない 雷むかっ
‥ と、異論もまた古くからあります。


ー・→


室町幕府を開いた足利尊氏も 「源氏」 の名を持つ家柄でした。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12130653255.html

どうして?‥
足利家が 「源氏」 なのか? というと、
平安時代の後期、桓武天皇の子孫 → 源義国 (源氏) まで さかのぼる といいます。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/源義国

もとは、河内源氏の棟梁・源義家 (八幡太郎義家) の三男・源義国が下野国足利荘 (今の栃木県足利市) に住んだ。


琉球の王統  その2
引き続き、源義国の次男・源義康も下野国足利荘 に住み、その地名から足利義康と名乗り、源義国の長男・源義重はとなりの上野国新田荘 (いま群馬県太田市) に住み、その地名から新田義重と名乗るようになったといいます。


琉球の王統  その2
*下野国・足利家も上野国・新田家も 「源氏」 → 徳川家康の祖 (おや) は『徳阿弥』という上野国の 「源氏」 の出自になっています。


ー・→


 ⇔ 一方、

雷 雷 雷 

爆弾 んなわけない 雷むかっ
‥ と、異論もまた古くからあります。


ー・→


1156 (保元1) 年7月
平安時代の末期に 「保元の乱」 が起きました。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/保元の乱 それは、皇位継承問題や摂関家の内紛により朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変でした。* 「保元の乱 / 1156年」 の時、まだ『源平争乱』は起きておらづ、源氏や平家といった武士の時代は、その後の 「平治の乱 / 1159年」 からと云われています。

近年、琉球の初代国王・舜天 (しゅんてん) 王 の父は 源為朝(ためとも)ではなく、源為朝(ためとも)の側近であった阿多忠景 (あたただかげ) であったという考え方が増えて来ました。自分もその説を信じています。

阿多忠景 のフルネームは、
阿多四郎忠景という 「平氏」 の名を持つ家柄でした。

つまり、 「保元の乱 / 1156年」 で平清盛に敗れた鎮西八郎・源為朝(ためとも)は、伊豆大島に流刑にされました。

実はその時、源為朝(ためとも)の側近・阿多忠景は 「平氏」 の名を持つ家柄だけど ⇔ 「源氏」 に成りすましていました。* 「保元の乱 / 1156年」 の時、まだ『源平争乱』は起きておらづ、源氏や平氏といった武士の時代は、その後の 「平治の乱 / 1159年」 からと云われています。

自分もその説を信じています。
なぜかというと?‥
また続けてみます →















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Posted by 阿佐工房 at 2016年05月11日   17:12
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