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光の国を求めて

紀元前は Bc 5世紀ころ、
春秋時代の呉越戦争で「呉」が亡びた。
と、同時期に大規模な水田跡が九州で見つかる。長江文明の象徴である水耕稲作文化の揚子江一帯の呉族が Bc 5世紀頃、「呉」滅亡とともに大挙して日本列島に漂着していたという説がある。

ー?→

むかし、中国大陸には「華北 (黄河) 」と『江南 (長江) 』の文明があり、
光の国を求めて
南方の『江南 (長江) 』地方には、呉族 (海部族) と 越族 (海部族) が住んでいました。

「呉越同舟」ことわざ は、不仲の人でも同じ舟に乗れば助け合う。と意味があるようです。

呉族 と 越族は、ほぼ同じ民族だけど不仲であった。そして、呉族 と 越族は「漁労と稲作」を生業 (なりわい) とする海部族で、水田作りと 鵜飼い漁を得意としていました。

ー・→

Bc 5世紀ころ、
呉の国 と 越の国は戦争をして「呉」が亡びた。
と同時期に、中国の山東半島や朝鮮半島の南、九州島の北部、日本島の西部には 呉族 (海部族) が多く移り住んだとも云われています。

(・・? ?
光の国を求めて
山東半島 / https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%8D%8A%E5%B3%B6



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紀元前は Bc 4世紀ころ、
かつて、呉の国 を亡ぼした 越の国は、楚の国に滅ぼされます。
光の国を求めて
楚の国に滅ぼされた越族 (海部族) は、中国の山東半島や朝鮮半島の南、九州島の北部、日本島の西部に多く移り住んだとも云われています。



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紀元前は Bc 3世紀ころ、
かつて、越の国 を滅ぼした 楚の国は、秦の国 に亡ぼされます。
光の国を求めて
そのとき「楚の国」の人々は、山東半島にあった『斉の国』に多く亡命したと云われています。
*斉の国には、呉越と越族、楚の国の人々が集合。

その後 →
光の国を求めて
秦の国は→ 斉の国 も亡ぼし → 中国を統一して行きます →

そのころ、
光の国を求めて
山東半島にあった斉の都・琅邪 (ろうや) から、徐福一行が朝鮮半島か? 日本列島のどこかに亡命した? という「徐福伝説」があります。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%90%E7%A6%8F

当時の琅邪 (斉の国) には、楚人・越人・呉人といった『江南 (長江) 』出身の住民が多く、彼等は秦帝国の圧政から逃れたいと思っていた。とも云われています。

ー?→

また彼らは、光の国 ≒ 太陽信仰を持っており、太陽は東方の海から生まれて来る。そして、鵜 (う ≒ 鳥 ) が『常世の国 (理想郷) 』に連れて行く? という信仰をしていたようです。



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日本島の西端にある、
光の国を求めて
豊浦町 / 土井が浜遺跡から「鵜 (う) とともに眠る女性」が出土していました。

ー?→

むかし、
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日本島の西端と東端 (常世の国?) に『豊浦町』がありました。

どうやら?
『豊浦町』の「豊 (トヨ) 」は、海の都・竜宮城に住む『豊玉彦?』と関係しており、古代の海部族は、太陽が海から生まれて来る? そして、鵜 (う ≒ 鳥 ) が『常世の国 (光の国) 』に連れて行く? と考え方をしていたようです。

そうした海部族は、祭祀的な日置部の仕事に携わる事が多く、日置 → 火起 → 土器職人 → 鉄器職人 に通じ → 後ほど軍事的な久米部と佐伯部にも通じていたようです。

そのため、古代の海部族には「もと呉族と越族」が多く、日置族には『もと海部族』が多くいたかもしれません。

(・・? ?
光の国を求めて
今では『鵜飼い』儀式といえば、美濃国の長良川がよく知られていますが、長良川の鵜は常陸 (ひたち) 国の「日立市」で生まれ育てられているといいます。

常陸 (ひたち) 国の「日立市」は『鵜 (う) の里』になっており、その「日立市」の古名は『豊浦町』でした。

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諸説ありますが、
「常世 (とこよ) の国」→『常陸 (ひたち) 国』という語源と説もあります。

また、
光の国を求めて
日立市 (むかし豊浦町) のとなりに「常陸太田市」がありますが、その「常陸太田市」の古名は『久米村』でした。

「日置部 (祭祀的な) から派生した久米部 (防人) の‥ 」と お話が見えてくると思います。
*豊浦町と久米村は「日置の里」≒『海部の里』



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紀元後の Ad 3世紀ころ、
光の国を求めて
中国大陸では、漢帝国 (後漢) が滅び「魏・呉・蜀」の三国時代に突入します。

ー・→

魏志倭人伝によると、
そのころ、朝鮮半島の南側に『韓の国』、その南に『倭の国』があったとされ、
光の国を求めて
朝鮮半島の南側に「韓族」という民族がいたのではなく⇔『韓』に住む人も「倭族」と呼んでいました。また、倭族という民族がいたのでもなく、『倭』とは蔑称で、亡命した人々の事を『倭人』と呼んでいたようです。

その頃の『韓の国』や『倭の国』は1つの国 (クニ) ではなく ⇔ 多民族の人々が集まる連なる邦 (クニ) で、
光の国を求めて
*その前に、朝鮮半島の南部や九州島の北部、日本島の西部には「呉族と越族」が多く移り住んでいたようです。

ー?→

魏志倭人伝によると、
「倭の国」は1つの国ではなく、倭の国 の中に末蘆国・奴国・伊都国・不弥国・投馬国などの30もの国が存在しており、その中心的なのが『邪馬台国』だったと載っています。
*邪馬台国の女王は卑弥呼。



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「倭の国」の中にある 邪馬台国には『馬』と文字がついており、
光の国を求めて
朝鮮半島の「韓の国」の中にあった 狗邪韓国 には『狗 (いぬ / 犬) 』と文字がついている事が気になりました。
*馬と犬?

さらに、
「倭の国」の中にある 邪馬台国 の南には、狗奴国 (くなこく) というライバル国があったという。
*狗奴国にも『狗 (いぬ / 犬) 』と文字

ー・→

後ほど、邪馬台国は南方にあったライバル国の狗奴国に亡ぼされます。

魏書には、
「倭国、おおいに乱れる」「倭国乱れ、相攻伐すること暦年」などと記され、「男王となす」「その国の人、入れ墨 (イレズミ) あり‥ 」などと記載されていたようです。

当時の入れ墨 (イレズミ) は、
光の国を求めて
海部族の特徴であったといいます。



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(・・? いったいぜんたい?
どうなっているか? 展開になってしまいましたが、また考えて見たいです。



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Posted by 阿佐工房 at 2017年11月18日   12:22
Comments( 0 ) 古代 (こだい / 誇大) もうそう
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