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もめんルート

紀元前480年 
ギリシアの史家ヘロドトスは、ある「植物」を見て驚きました。

しばらくすると、13世紀頃 マルコポーロは同じく驚いた!!

もめんルート
(ノ゚ο゚)ノ 「印度には!!木に生じる『羊毛』がある」 中世期頃の一般人は、羊の木は、みのると芽が破れて中から小さな羊が出て来る。羊は自らの幹を曲げて下の草を食べて生きている。もしそも草を喰いつくしてしまうと、羊は死んでしまうと思つていた。

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また、しばらくすると、江戸時代の「和漢三才図絵」という書物には、「地羊西域に出ず、羊の臍(へそ)を以って土中の種へ、漑くる水を以てす、雷を聞いて生ず、羊さい地に連なる、長ずる及び木声を以てすれば臍、すなはち断つ、便ち能く行て草をかむ、秋に至りて食すべし、臍の中腹種有り瀧種羊と名づく」・?・?・

↑↑江戸時代の百科辞典には↑↑「綿花」のことについて「地生羊」と書かれている。

江戸時代には、すでに「綿花」は栽培されていたはずなのが、著者は情報を知らなかったのだろうか?はたまた、「木綿」は貴重で「ひみつ」であった?なじみないかもしれない・・

もめんルート

万葉集には、「木綿(ゆう)という文字がところどころ出てくる→木綿(ゆう)とは、真綿(まわた)や楮(こうぞ)などでつくった衣料で、木綿(ゆう)は⇔木綿(もめん)ではなかった。

真綿(まわた)とは、糸繰り(いとくり)に適さない生糸=絹糸を紡(つむ)いだ紬(つむぎ)用の紡ぎ糸の事で、綿(わた)は⇔綿(めん)ではない。

木綿(きわた)という文字もある→木綿の文字は、三つもの呼び名→木綿(もめん)⇔木綿(ゆう)⇔木綿(きわた)など‥それぞれ違っている。

木綿(もめん)の利点は、吸水性、弾力性、保湿性などがあり、あたたかく動きやすい⇔欠点は、風を通しにくいので、夏はあつくて重たい、

江戸時代の前から存在していたはずの木綿(もめん)は、「ひみつ」であったかもしれない?

織田信長の火縄銃は⇔水鉄砲をおそれていた?

火縄銃には、木綿を用いており、水に濡れると使えなかったようです。

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日本への木綿(もめん)の伝来は、「類聚国史」によると、桓武天皇の頃 799年7月、1人の男が船に乗って三河国に漂着した年の頃は二十才ばかりであろうか、身の丈は五尺五寸、耳の長さは三寸余り、言葉が通じなかったので、どこの人だともわからなかった→その者が持つていた「綿種」を近江国~紀伊、淡路、四国、大宰府などの諸国に確かに栽培されて・・・」と記されている。しかし、この「綿種」はいつとなく失われている。

その後かなり経つてから、綿布は輸入されるようになり、足利末~信長、秀吉の頃には、再び栽培がなされたようです。

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木綿(もめん)は、それまでの麻(あさ)や真綿(まわた)などと違い、弾力性があったため、兵衣として用いられるようになりました。また、風を通しにくいので大型帆船の帆(ほ)として、速く進むようになり、火縄銃の材料にも需要は広がりました。

しだいに、朝鮮から大量に買い付けるようになった⇔しばらくすると、朝鮮では木綿不足となり、輸出を抑えるようになり、天文年間の頃には、中国との密貿易によって唐木綿が輸入されている。

木綿(もめん)のすぐれた性能が認められ15世紀末頃から、各地で急速に広まっていきました。

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1560年 桶狭間の合戦では、今川義元が尾張の地である鳴海の町の支配権を自らの勢力下に入れるために起こしました⇔織田信長は、「絶対不利」の戦いを受けました。
その鳴海の町というのは、木綿栽培に適した地であり、命をかけるほど重要な拠点であったようです。

その後、木綿の産地知多~三河という木綿ルートを広げていき→木綿を用いた火縄銃で、最強「騎馬軍団」の「武田さん」をやぶりました。

もしかすると?
武田軍団の「うま」より⇔『ホース』の方が嫌 (イヤ) であった?かもしれない・・

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あれから時がたつと、名古屋市緑区有松町桶狭間になった→現在でも「鳴海・有松絞り」という看板をかかげたお店があるようです。それまでにも絹を使用した絞り染はございましたが、「鳴海・有松絞り」は、木綿発祥地となりました⇔織田信長の治世には、木綿の兵衣はあったが、木綿絞りはありませんでした。
なぜ、ここで木綿絞りが始まったかというと、それ以前からこの地域で綿花が栽培され、その木綿をなんとか産業にするために、木綿絞りを行うようになったようです。

有松町は、慶長13年(1608年)に尾州藩によって開発されました。慶長5年の関ヶ原合戦後、政権は、徳川の手に帰し、江戸と大坂を結ぶ東海道の整備改修がいそがれるようになりました。

織田信長の頃には、輝いていた有松の鳴海宿一帯は、さびれた街道になっていました。
そこで、この附近に新しく部落を設けることになって、慶長13年12月に移住を奨励し、知多郡全体の住民に諸役を免除するという特典を与え、希望者を募る広告をしたのであった。

これに応じた最初の移住者は7名で、寛永2年(1625年)には14名、それから十数年たつても、たった19名であった⇔この数字は検地帳記載の者だけなので、あるいはまったく土地をもつていない農民もいたかもしれないが、それにしても移住者は少なかった。

ある日、庄九朗という者が、手拭いに、くも絞り(布地の一部をつまんで糸巻した藍染の絞り)を染めて、わらじと一緒に竿(さお)につるしておいたところ珍しいので、東海道の上り下りの旅人の間で、評判になって、売れはじめた。

もめんルート
当時の夜道は暗かったので「しぼり」は星のように輝いていたのかもしれない・・

しだいに、「鳴海・有松絞り」が世間一般に知れ渡るようになったのは、寛永18年(1641年)徳川光友(尾州二代藩主)が世嗣として、はじめて尾張に入国した際、行列が有松村にさしかかった時、有松の村民がお祝として「しぼり」を献上して、光友は大いに気に入って、有松絞りの名声がいっぺんに知れ渡りました。

その頃までは、布地は麻や真綿、絹だったようですが、しだいに「木綿絞り」が普及するようになったとさ・・

初代の「有松絞り」は、有松村移住の最初の人で、あの「くも絞り」を染めた竹田庄九朗であった。

「鳴海絞り」と「有松絞り」は、別なもののようであるが、実は同じ「しぼり」だそうです。
江戸時代、有松は東海道筋、鳴海の宿の隣りであるため、旅人としては、「有松」より「鳴海」の印象が強く、そのため「鳴海絞り」の名が一時は広まったようです。

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Posted by 阿佐工房 at 2013年11月25日   18:12
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